ギリシャ神話の神々のことを「人間臭い」と表現する人がよくいると思う。
完全であるはずの神に似合わないように思える行いがよく見られるからである。
しかし、それを、「人間臭い」というのとは違うと思う。
ひどく無邪気に感じる神々の行いは、全く人間臭くなく、それこそ神らしいと思うのである。

ギリシャ神話の最高位の神々であるオリュンポス十二神は、ほとんどがゼウスの兄と姉、そして、ゼウスの子で、例外は愛と美の女神アプロディーテーだけだが、アプロディーテーはゼウスの祖父ウラヌスから生まれた女神である。
オリュンポス十二神は、男神6柱、女神6柱だが、力や勢力において際立つのは、若い女神であるアテーナーとアルテミスである。
アテーナーは大神ゼウスとほぼ互角とまで考えられるし、ゼウスの後継者と思われるアポローンの双子の妹(一説には、先に生まれた姉)であるアルテミスも、アポローンと並び称される。
ところで、アテーナー、アルテミスとも処女神として知られる。
アルテミスは純潔の女神とも言われるが、この2柱の女神は徹底して処女であることに重きを置く。
アルテミスはカリストーという非常に美しく愛らしい精霊の少女を気に入って可愛がり、身近においていたが、カリストーは、彼女を見初めたゼウスと交わり身ごもる。
カリストーの妊娠を知ったアルテミスは、一切の事情を知ろうともせず、カリストーが処女でないという理由だけで追放する。
普通に考えたら、アルテミスの行いは理解し難く、カリストーを可哀想に思うだろう。

だが、ギリシャ神話でいう処女とは、固定観念を持たないということと考えると良いのだと思う。
知恵と戦いの女神アテーナーは固定観念を持たないが故に、知恵に優れ、軍神アーレスに打ち勝つほどの力を持つのである。
アテーナーは、その力を保つために、固定観念を持たないこと、つまり、処女であることに徹するのである。
アルテミスが水浴しているところに、たまたま通りかかったアクタイオンという男を、アルテミスは自分の裸を見たというだけで鹿に変え、アクタイオンは、彼が連れていた猟犬に食い殺される。
ここまでに処女に徹底するからこそ、つまり、固定観念を近付けないからこそ、アルテミスもまた、神々の中でも別格の扱いを受けるほどの力を持つ。
また、オリュンポス十二神には含まれないどころか、ゼウスの敵であったティターン族の女神であるヘカテーは、強大な権能を持っていたが、ゼウスはそれを取り上げなかった。
ヘカテーもまた処女神であり、ゼウスすら手が出せない、侵し難い力を持つ女神である。

恐るべき力を持つ処女神達は、とても無邪気である。この無邪気さが、固定観念を持たないことを表してもいると思う。
ところで、聖母マリアは処女のままイエスを身ごもったと福音書に書かれているが、それを表面的な言葉のまま受け取ってはいけないかもしれない。
こう言ったからとて、別にカトリックの教義を否定することにはならない。
マリアは不要な固定観念を持たない優れた女性だったということだ。
死海文書やエドガー・ケーシーのリーディングにおいては、マリアは普通の方法でイエスを身ごもったとされている。
言葉通りの意味でマリアが処女だったということに、こだわるのはおかしい。そんな信仰はレベルが低いと、未来において思われるかもしれない。
むしろ、マリアは世俗の固定観念を持たなかったこと、世間の教義や信念に平伏すのではなく、天の理を貴び、従っていたというところを強調すべきなのである。

我々も、アテーナーやアルテミスが固定観念を嫌っていたこと、マリアが固定観念に穢れない存在であったという視点でギリシャ神話や新約聖書を読むと、得るところは大きいのであると思う。
きっと、アテーナーやアルテミス、そして、ヘカテーの力の一端に触れると思う。









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