今朝の記事で、固定観念、あるいは、偏見というものをどんどん無くしていけば、どんどん能力が上がり、ついには超能力者になるということを書いた。
そのためには、『荘子』を読むのが良いことであると書いた。
他にも、『法華経』や『無門関』(禅の考案集)を読むのは、良いことと思う。
『荘子』がまさしくそうであるが、これらには、気宇壮大な、桁外れに馬鹿馬鹿しいお話が沢山載っている。
とてもではないが、世間の固定観念なんか持っていたら、読んでいられない。

だが、これらの本の、専門家による解説は、百害あって一利なし・・・とまでは言わないが、害が多いので読まない方が良い。
例えば、『無門関』に『せい女離魂(せいじょりこん)』という、いったん2人に別れた女の子が再び1人に合体するという摩訶不思議なお話がある。
これを、禅の専門家が「その意味はこうなのじゃ」と解説したり、あるいは、物理学を勉強した人が、「これは量子力学で説明できる」と言って、変な解説をしていても、あまり相手にしない方が良い。
せっかく、固定観念を外してくれるお話なのに、誰かの固定観念による解説で、新しい固定観念をくっつけられてはかなわない。
ただ、不思議なお話を「ああ、なるほど」と思って楽しめば良い。
もっとも、これらのお話を読むと、「馬鹿馬鹿しい!」と怒り出す、固定観念にがんじがらめになった人も多いと思う。そんな人に見込みはない。
奇妙なお話だと思っても、理屈をこじつけて無理に納得しようなどとせず、不思議は不思議として放っておけば、いつか、そのお話の方から、答を語ってくれるのである。

『古事記』や『福音書』等の解説書を書いている人は沢山いて、それらの人の中には、自分は確かに、その意味が本当に分かったという経験をした人がいると思う。
しかし、それを言葉にすると、その言葉には、彼らの知識や経験、そして、彼らの是非好悪が入り込み、それはもう、1つの立派な偏見なのである。
もちろん、それらを、参考にするのは良いのだけれど、書く人の文章に勢いがあったり、あるいは、文章が上手過ぎて妙に説得力があったりすると、つい信じさせられてしまい、それが自分の固定観念になるのである。
だから、そういった解説書を読む時は、あくまで、その解説は、その解説者にとっての真理、あるいは、単に個人的見解であり、自分にとっては、単なる参考に過ぎないということを忘れてはならない。
彼らに悪意はないのかもしれないが、結果として害になる場合が多いのである。
特に、権威に弱い人は、権威者の解説は決して読まない方が良い。だが、実際は、権威に弱い人は、権威者の解説を有り難がって読み、記憶するのである。そして、それで戦争が起こるのである。

『荘子』や『歎異抄』と題されてはいるが、その本の内容の大半が、解説という名目の著者の偏見という厚顔無恥なものも多いのである。
『荘子』等を読む時は、あくまで、分かり易い現代語訳をメインにしたものを読むのが良い。まあ、そんな本は、著者にとっては旨味がないのだが、だからこそ、分かり易い現代語にすることだけに全力を上げて書いたものが、最も善良な良い本なのである。
当然、異論はあるだろうが、個人的に良いと思う本、繰り返し読んだことで、不可思議な体験ができたと思う本を挙げておく。









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