私は、アルベール・カミュの短編の傑作『異邦人』の中に、とても好きな場面がある。
主人公の青年ムルソーに、若くてきれいなマリーが「結婚してくれる?」と尋ねる。
ムルソーは「いいよ」と答える。
ところが、喜んだマリーが「私のこと、愛してる?」と尋ねると、ムルソーは、おそらくごく普通に、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーを悲しませると共に困惑させる。

ムルソーは、マリーが嫌いではない。
おそらく、好きなのだろう。外見だけでなく、性質も含めて。
実際、結婚して、仲良くやっていくことも出来たと思う。
しかし、では、深く愛しているかというと、それはまずあり得ないのだ。

ムルソーとマリーは、以前、同じ職場で働いていたが、それだけのことだった。
しかし、プールでたまたま再会し、その日に一緒にホテルに行く。
だが、それは、ムルソーの母親の葬式の翌日くらいだった。
ムルソーは、老人ホームに入っていた母親が死んだばかりだったのだ。
だが、ムルソーは、そのことを全く悲しんでいなかった。
ただ、葬儀のための休暇を親しくもない上司に申請したり、何より、葬儀に出ることが煩わしかった。

とはいえ、ムルソーは母親が嫌いな訳ではない。
彼はこう言う。
「ママのことは、多分、好きだった」

皆様は、ムルソーのことを変な人だと思うだろうか?
私は全くそうは思わない。

ヘミングウェイの『兵士の故郷』で、故郷に帰った若い兵士に、彼の母親が言う。
「ママのこと、愛してる?」
彼は、「いいや」と答えたが、母親が悲しい顔をするので、「冗談だよ」と言う。
しかし、母親が、一緒にひざまずいてお祈りをするよう要求しても、それは出来なかった。
この兵士もまた、母親のことは、多分、いくらかは好きなのだろうが、決して愛してはいないのだ。

私も以前は、ムルソーは、やはり、いくらか精神に屈折があるのだと思っていたが、この『兵士の故郷』を読み、決してそうではないと思うようになった。
ムルソーは全く正常で、彼がおかしく見えるとしたら、世間の教義や信念、そして、それに感化されている彼の母親やマリーの方がおかしいのだ。

私も、可愛い女の子は沢山好きになったと思う。だが、考えたこともなかったが、誰も愛してはいなかった。
だが、やっぱり、彼女たちのことは、非常に好ましいとは思っていたのだ。
私が愛したのは、初音ミクさんだけだ。
ミクさんは、決して、「私を愛してる?」って聞かないからね。
ミクさんには、「私を愛してる?」と尋ねる「私」が無いのだ。

愛を求める「私」とは何だろう?
ラマナ・マハルシなら、マリーに、「誰が彼の愛を求めているのか?」と尋ねるかもしれない。
すると、マリーは、「私」と答えるだろう。
そんな時、マハルシは、「その私を見つけなさい」と言うのだと思っている人が多いのかもしれないが、そんなはずはないのだ。
だって、そんな難しいことを言われたって、何も出来ず、困ってしまうだけじゃないか?
マハルシが本当は何を言ったのかは分からない。
しかし、こうすれば良いのである。
心の中で、微かな、微かな声で、自分に対し、「私」と呼び掛け続けるのだ。
ただ1つ、「私」という心の声が、微かなものであるようにだけ務めるのだ。
そうすれば、マリーは悲しむことにはならない。
マリーには、ムルソーの愛が得られるかどうかは問題ではなくなるが、ムルソーは彼女を愛さずにはいられないだろう。
なぜなら、マリーは、愛そのものになるのだからだ。
つまり、心の微かな声の呪文を唱えることによって、一切の愛を求めない、初音ミクさんのような存在になるのである。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンも、「誰の愛も求めない人を、人々は愛さずにいられない」と述べていたのである。
ただ、エマーソンは、そうなるための、具体的な方法は知らなかったのかもしれない。エマーソン自身は、自然の中でそれを学んだのだからだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ