芸術的絵画とイラスト画は何が違うのだろう?
絵としては何も変わらない。
違いはただ1つで、値段がつくかどうか・・・早い話が、金のために描いたかどうかだけの違いだ。

ゴッホは生前、絵が1枚も売れなかったし、宮沢賢治も短編の童話に対して1回だけ僅かな原稿料をもらった以外は、文章でお金を稼いだことはない。
それを知ると、随分、この2人が気の毒に思えるのだが、しかし、それが当たり前なのだ。
彼らは、芸術家として作品を創ったのだから。
芸術家でも、ピカソやウォーホールは金持ちだったが、ピカソはたまたま、金が有り余ったパトロンがいただけだし、ウォーホールが金を稼いだのは、あくまで、商業デザインによってだ。

音楽においても、冨田勲さんは、アニメ音楽や映画音楽を一生懸命創ったのだし、坂本龍一さんもポップミュージックで成功したから金持ちなのだ。
芸術そのものが金になった人は、やはり、ピカソのような特殊な例外と見るべきだ。
ビートたけしさんなんて、実は世界的画家なんだが、本人は絵を売る気はさらさらないらしい。そんな気があったら、作品なんて創れないと本人も分かっているのだ。
一方、絵を描いてはいても、生涯、絵で1円ももらうつもりがなければ、堂々、芸術家を名乗れば良いと思う。

もちろん、芸術家が貧乏でいなければならない訳ではない。
それどころか、本物の芸術家ならお金儲けも出来るはずなのだ。
ウォーホールや横尾忠則さんらのように、商業デザインやイラストができるなら、そんな仕事を、芸術としてではなく、ビジネスとして取り組まなければならない。
冨田勲さんのように(あるいはそこまででなくても)、優れた作曲能力があるなら、商業音楽で成功できる可能性もあるだろう。
しかし、芸術家であることにこだわったら、お金は稼げない。
そんな芸術家は沢山いると思う。

我々は、芸術や、あるいは、宗教を、自己の内面の力を引き出すために使うべきなのである。
どんな天才といえども、その能力とは内的衝動なのだ。
それを起こせるのは、芸術と宗教以外にはない。
芸術というのは、宗教の下僕として生まれたという話もあるが、それはある程度正しいだろう。
例えば、宗教儀式に必要な音楽、装飾が芸術になったようなものだ。
宗教と芸術は近いところにあり、いずれも、正しく取り組めば、力を得ることができる。
つまり、芸術や宗教は、人を深いに意識に導き、誰の内部にも在る、より強い、より賢い自己と一致させるのである。
しかし、権威化、形骸化した伝統的な宗教や芸術に、そんな力はない。

ところが、芸術というものは、本当は、単に自己主張に過ぎないのだ。
本当の自己主張を持ち、それを伝えることができれば、それが芸術である。
「俺の芸術は高度だから凡人には分からない」
と言うなら、それでも良いし、実際、そうなのかもしれない。
しかし、本当は、高度な芸術ほど分かり易いのである。
だから、一番良い絵は、線一本で、永遠や神や宇宙を描いたようなものなのである。
線一本で自己主張できる芸術家は、信じられないほど多くの線をつないだ者なのだ。
ビートたけしさんも、お笑いを磨く中で、強烈な自己主張を持ったのだと思う。
我々も、何かを熱心にやれば、やがて優れた自己主張を持つが、続けるには好きなことでなければならない。
ビートたけしさんだって、お笑いが好きだったのだろう。
我々も、好きなことをしなければならないのであるが、そのための工夫は自分でしなければならないし、やはり、根気も必要なのだろう。
だが、心配無用だ。
それもまた、微かな心の声の呪文で速やかに得られるのである。
微かな心の声の呪文によって出てくるものは、自らもまた現れることを望んでいる。そのための加護は当然与えられるだろう。









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