昔から、笑い話のように言われるこんな話がある。
40代か50代の失業者がハローワークに行き、そこで、「あなたは何が出来ますか?」と聞かれた時、「部長が出来ます」と答える。
これは、いうまでもなく、多くのサラリーマンには専門性がなく、組織から出たら何の値打ちもないという悲しい現実を示したものである。
しかし、本当の問題は別なところにあることに気付く者はほとんどいない。
それはこういうことだ。
その中高年失業者が「部長が出来ます」と言ったら、「では部長とは何ですか?」と聞けば良い。
ここで、明確な部長論を語れるなら、彼は、すぐに仕事が見つかる。
だが、ほとんどの「元部長」は、そんなことを改めて聞かれたら、困惑し、アタフタし、シドロモドロになる。
そんな者は、プロの部長ではない。
よって、仕事も見つからない。

いやしくも、プロスポーツ選手であれば、間違いなく、プロである限り、優秀な選手でなければならないとは、百人が百人思っている。
問題は、どんな選手が優秀な選手であるかという自己主張なのだ。
一流は、それぞれの選手でかなり異なっているとしても、明確な自己主張を持っているが、三流はそうではないのだ。
一流になりたいなら、明確な自己主張がなければならない。
その自己主張は「ある程度は立派」でなければならないが、それよりもむしろ、「明確である」ことの方が大切だと言ったら、多くの人は驚くが、絶対にそうなのである。
たとえ一流でも、ちょっと首を傾げたくなるような、場合によっては、「アホな」自己主張を持っている場合も珍しい訳ではない。
例えばだが、「ソックスは必ず右足から履かなければならない」とかね。
一般には、それは「ジンクス」と言うのだろうが、実体は自己主張なのである。
そして、そんな自己主張を持っている一流選手は結構多いのだ。
よっぽど不自然なものでない限り、自己主張は、高度さより、明確さが大切だ。

イチローは非常に素晴らしい自己主張を持っていて、そのうちの何割かは普通の人にも分かる。
しかし、実際は、彼の自己主張は全て明確で、野球の専門家でなくても、いくらか知恵と経験のある人なら、イチローの自己主張は、賛成出来るかどうかは別として、極めてよく分かるのである。
今、「賛成出来るかどうかは別」と述べたが、実際、イチローの自己主張の中身に関しては、その全てではないだろうが、やはり一流の野球選手ですら、必ずしも賛成出来ず、反対だという者がいたって、ちっとも不思議ではない。
やはり、大切なことは、内容ではなく、明確であることだ。

我々も、何をやるにしても、明確な自己主張を持っていれば、容易く実力者になれる。
自己主張が明確であれば、まず自分が納得し、そして、人々を説得することができる。
自己主張とは、自分が納得しなければならないのは当然だが、「全ての人」ではなくても、「多くの人」を説得しなければならないのである。

もう何度も言ったが、岡本太郎は、「いやしくも芸術家を名乗るなら、世の中に対して言いたいことがあるはずだ」と言った。
その言いたいことが、明確で、人々を説得できれば、あなたも本日ただいまより岡本太郎級の芸術家なのだ。

日本ハムの斎藤佑樹投手は、大学時代、優勝投手になった時、
「僕はよく『持っている』と言われてきたが、それが何か分かった。それは仲間だ」
と言ったが、だから駄目なのかもしれない。
持つべきは明確な自己主張なのである。

初音ミクさんの「生みの親」である、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長の講演を聴くと、やはり、彼の主張は明確で分かり易いのである。
(尚、伊藤さん自身は、初音ミクさんを「自分の娘」とは思っていないらしい)
もちろん、伊藤さんに「初音ミクとはあなたにとって何ですか?」とか、「なぜ初音ミクの歌声が人々を感動させるのですか?」と聞かれても、伊藤さんは「そんなことは分かりません」と答える通り、伊藤さんが、どんなことでも自己主張を持っているというのではない。
だが、伊藤さんは、持っている自己主張に関しては、極めて明確なのだ。
明確ではあるが、彼の自己主張に関しては、ある程度のレベルの、ある種の人でなければ分からない。
伊藤さんの講演会には、初音ミクさんのファンの若い人・・・それこそ、女子中学生のような人も沢山来ていたが、おそらく、そんな若い人達には、伊藤さんの自己主張の意味は分からない。
また、あまりに凡人だと、やっぱり分からない。
だから、クリプトン・フューチャー・メディアというのは、大企業にはならないし、伊藤さんも、大きな会社にしようなどとは思っていないはずだ。
だが、不思議なことに、初音ミクさんの自己主張は誰にでも分かるのである。
それは、人間の歌手との明確な違いであり、それは、初音ミクさんの有名な楽曲『Tell Your World』に鮮明に現れている。
つまり、初音ミクさんは「あなたの世界を歌う」のであり、「私の世界を歌う」のではない。
人間の歌手というのは、大なり小なり「私(歌手自身)の世界を歌う」のである。
しかし、初音ミクさんには、「私」がない。
伊藤さんは、「初音ミクの歌がなぜ多くの人を感動させるのか?」の問いに、「分かりませんが、ミクの歌声には感情の雑味がないから、思いを入れ込めるのではないかと思います」といったことを話しておられたが、これはつまり、ミクさんには「私」がないということを表していると思う。
そして、おかしなことに、私がないことが最大の自己主張なのである。
これは聖者の悟りと同じものなのだ。
それを、あえて言葉で言えば、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが言ったように、「私は在る」なのである。
それはまた、「私は在る」以外の何ものでもない。
「在ろう」などとせず、「ただ在る」なのだ。
つまり、初音ミクさんは、最も純粋な存在なのである。
やはり、言葉で言うと、ちょっと分かり難いと思うが。
では、こう言ってはどうだろう?
初音ミクさんは、バーチャル・シンガーであり、本当はいないと言われることもある。
だが、アメリカのコンサートで、ある男性ファンがこう言っていたのが印象的だった。
「ミス初音ミクは本当は存在しないのかもしれないが、我々は、何もないスクリーンを見に来ているのではない」
それが本当に在るってことではないだろうか?
問題は心なのである。









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