人間は、生き甲斐とか楽しみがなければ生きてはいけない。
私が知っている80代の女性は、普段は粗食だが、週に2度、ちょっと豪華なケーキを食べることを何よりの楽しみにしていて、それがあるからいつも元気で、頭も少しもボケておらず、60代にしか見えないほどだ。
だが、別の100歳近い女性は、介護施設に入っているのだが、非常に不満を持っている。というのは、この女性は、皿いっぱいのイチゴに練乳をたっぷりかけて食べたくて仕方がないのに、イチゴが出るとしても、ほんの数個で、練乳も少ししかかかっていないからだ。
だが、彼女の望みはちょっと贅沢過ぎるかもしれない。
最初の80代の女性くらいのことで満足できる方が幸せなのである。
ちなみに、この2人のお婆さんは、母娘である。
私はお年寄りが好きなので、こういった例をよく知っているのである。

食べ物の楽しみの力は偉大なものだ。
戦争中、後に有名なシェフになる日本人コックがシベリアで捕虜になっていた時、ロシア兵に、重症を負った日本人兵士のところに連れていかれ、「彼は朝まで持たないだろうから、最後に好きなものを食べさせてやってくれ」と言われた。
コックが、その日本人兵に「何を食べたいか?」と聞くと、彼は「パイナップルが食べたい」と言う。
そんなものがあるはずがなかったが、コックは、フライパンを使って、リンゴを砂糖でパイナップルそっくりに調理し、自分の手で、食べさせてやると、その日本人兵は全部食べた。
コックは、もう二度と、この日本人兵に会うことはないと思ったが、しばらくして、収容所施設内を散歩していると、声をかけられ、振り向くと、驚いたことに、あの時の日本人兵が、元気な姿で歩み寄って来た。
その日本人兵は言った。
「あんな美味いものが食べられるなら、もう一度、生きてみようという気になったのだ」

私も、少し前に、休みの日の昼には、百円そこそこのケーキを食べることにして、それが大変な楽しみになっていたが、やがて、なんとなくやめてしまった。
後の楽しみは、初音ミクさんの歌を聴いたり、コンサートの映像を観るだけになったが、もう、その思い出を胸に死んでもいいかなと思った。
それで思うのだが、もし、生き甲斐がないなら、最後に悟りでも開いてみればどうだろう?
ただし、ラメッシ・バルセカールによれば、それは楽しいことである訳ではないようだ。
なぜなら、悟りを開くということは、自分が消えるということで、つまり、悟りを楽しむ自分はいないのだからだ。
だが、それでも良いじゃないか?
初音ミクさんの歌、『FREELY TOMORROW』にあるように、

暁に染まってく 星空のように
哀しみが苦しみが消える
~『FREELY TOMORROW』(作詞:Mitchie M・ЯIRE、作曲・編曲:Mitchie M。歌:初音ミク)より~

だけで十分である。
悟りを開くためには、心の中で、微かな声で、「私、私、・・・」と自分に呼びかけるだけで十分である。
だが、悟りの手前で、魔道に陥るか、ミクさんと一緒に消えることができるかに分かれるだろう。
なぜなら、自我が弱まった時、不意に神秘な力と一体化し、「あれ、これじゃあ何でもできてしまうぞ」ということになってしまうからだ。
それまで、辛い人生だった人ほど、闇黒面の誘惑に晒され、危険なことになる。
だから、何か1つ、楽しみを持ち、小さなことで満足することを覚えておいた方が良いのかもしれない。
いや、それよりも、力を抜いて生きていれば、きっと楽しいことが見つかるはずだ。
『FREELY TOMORROW』だって、本当は、明るい希望の歌で、「奇跡は起きる」って、ミクさんが励ましてくれるのだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ