「人間、気合だ」
と言うと、古臭いようには思うかもしれないが、案外に誰も苦笑したり、馬鹿にしたりはしないのである。
つまり、結局のところ、これしかないのだと認めるしかない。
ただ、問題は、どうすれば気合が入るかってことになる。
アニマル浜口さんのように、「気合だ!気合だ!」と連呼すれば気合が入るってものではないし、入っても困る。
「泥棒やるぞ!気合だ!気合だ!」
「あいついじめてやるぞ!気合だ!気合だ!」
「お布施するぞ!気合だ!気合だ!」
「将軍様を敬うぞ!気合だ!気合だ!」
なんて、言っても言わせてもいけないことは明白だが、あちこちでよくやってるし、やらせているのである。

ただ、こんなのはどうだろう?
「業界ナンバーワンになるぞ!気合だ!気合だ!」
「今月のセールス目標五千万円売るぞ!気合だ!気合だ!」
「田中さんに、この保険を契約させるぞ!気合だ!気合だ!」
これらは、エゴイズムに陥り易いものであることが分かるだろう。
こういったことも、世間でよくやらされている。
やらされて白ける者も多いのだが、白けた方が良いとも悪いとも言えない。
こういったことをやるのが嫌でニートになるのは、理解できるようにも思うが、かといって、こういったことをやらされている親に食べさせてもらっているなら「何をか言わんや(あきれてものが言えない)」であろう。
ものを考えない人間になってはならない。

だが、自我(あるいは顕在意識)の大事な役割は、「しゃきっとすること」なのだ。つまり、気合を入れるってことだ。
いかに、無意識(あるいは潜在意識)の力が大きいとしても、自我がだらだらしたり、「どうせ僕なんか」と落ち込んだり、「所詮、世の中こんなもん」と拗ねていたら、何にもならない。
人によっては、「そうだ、人間は好きなことをしなければ燃えないんだ」と言うかもしれないが、自分の殻に閉じこもるような好きなこと、つまり、自分だけが楽しいことをしていたら、地獄へ一直線だ。

そして、結論はこうなるはずだ。
つまり、「自分の正義に忠実であるか」だ。
自分の正義に誠実で、正直であるなら、「気合だ!」って喚かなくても、気合は入るのである。
自分の正義であるから、本当に正しいのかどうかは分からない。
しかし、それが、他から強要されたものでなく、自分で掴み取り、自分で確信した正義であれば、それが正義である。
「将軍様を敬うのは正義だ」
「WindowsをMAC OSに変えさせるのが正義だ」
なんてのは、洗脳されて、自分を失っているだけだ。
個人としての人間を崇拝するのは愚かだし、将軍様は人間だ。
他人がWindowsを使おうがMACを使おうが自分には関係がない。合理的な都合があるなら、職場でどちらかを指定するのは良いが、趣味で職場にMACを導入している例もよくある。

確かに、趣味と正義は似たところはある。
他人に強要してはならないところは同じだが、そのために無限の勇気が湧くのは正義だけである。
つまり、正義とは限りないエネルギーであり、制限があるなら、それは本当の正義ではない。
だから、正義は自然に気合が起こるのである。
正義の女神は、左手に天秤を、右手に剣を持ち、目隠しをしている。
正義は、目で見て分かるものではない。
五感は幻想であり、騙される。
正義は、魂の天秤でしか計れない。
そして、力がなければ正義ではない。
少なくとも、力を目指していないなら、正義のはずがない。
正義があれば、限りなく強く強くなっていく。

気合とは、自分の正義を確立することだ。
だが、何か感動する話を見たり聞いたりして、「感動しました!」と言っても、それで強くなれないなら、そんなものはメロドラマであり、正義でも何でもない。
正義の女神アストライアーは、人々が善人にならないから落胆して天に帰ったのではない。
人々が、強くなろうとしないから、つまり、本当の正義を求めないから、天に追い返されたようなものだ。
本当の正義を求め、そのために強くなる者に対しては、アストライアーは戻ってきてくれるだろう。
見せかけに騙されず、自分の魂の天秤で正義を見つけ出し、剣を磨くだけである。
そうすれば、本当の気合があり、気合と一体化するだろう。









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