数学者でコンピューター科学者のシーモア・パパートは、幼い時に、歯車に夢中になり、その後、どんなことでも、頭の中で歯車を思い描いて考えれば、うまく理解したり、解決したりすることができるようになったようだ。
彼は、その時、自分に何が起こっていたかについて、学者らしく、やたら難しい書き方をしている。しかし、そのことを言葉で正確に伝えようとすれば(これが学者らしいということなのだが)、極めて複雑なものになってしまうのは仕方がないことであり、一般向けの話では、あれでもかなり簡略化しているはずなのだ。
パパートの歯車の話は、パパートの著書『マインドストーム』のまえがきに書かれているが、いくつか気になる表現を取り上げてみる。

・私は歯車に惚れ込んだ。
・理解に加えて、フィーリング、感情があった。
・ピアジュ(心理学者)は感情の問題を無視したが、それは、感情とは理解できないものであるという謙虚な配慮からきていた。
・自分で歯車になって、回ってみることで、歯車がどう回るか理解できる。
・歯車について誰かに教わったのではない。

簡単に言えば、好きになったものと自然に同化することが大事だということになる。
パパートは、自分にとっての歯車の役割をコンピューターができるかもしれないと考え・・・考えただけではなく、世界最高の心理学者(ピアジェ)や人工知能研究者(ミンスキー)らと研究を重ね、プログラミング言語LOGOを開発し、子供達に教えたが、さあ、それはうまくいかないんじゃないかなと思う。
MITメディア・ラボのミッチェル・レズニック教授もパパートの考えを引き継いで、もっと良いプログラミング言語Scratchを開発し、自慢げに宣伝しているが、あれで子供達が賢くなるとは、とても思えないのだ。
そうではなく、大切なことは、好きになること、好きなものと一体化することである。
パパートにとっての歯車を、子供達は皆、自発的に、偶然に見つけなければならないのだ。
アインシュタインが光と一体化して、一緒に飛んだように。
彼がそうしたことで、何か、あるいは、あらゆるものが、真理をささやいてくれたのである。
パパートの体験も、そんなささやきを聴いたということなのだろうと思う。
大人達は、そのために、子供達を本当の意味で賢く支援しなければならないし、それ(賢い支援)しかできないのだ。
しかし、実際に大人がやるのは、いつも愚かな強要なのだ。パパートやレズニックすら、そうなのかもしれない。

楽器でいえば、そんな一体化の体験は、ピアノやヴァイオリンのような難しい楽器よりは、太鼓や笛といった、比較的単純な楽器の方が得やすいのではと思うが、もし、ピアノやヴァイオリンに夢中になることができれば、やはり楽器と一体化するのだと思う。
だからといって、子供にピアノやヴァイオリンのレッスンを強要するのは間違いである。
アインシュタインはヴァイオリンを習っていたが、教師のレッスンのやり方が嫌でやめてしまった。しかし、後で自己流でやった時は面白く、ヴァイオリンと一体化し、それがまた、真理を彼に語ったのだ。
パパートだって、歯車について、誰かに教わったわけじゃないと述べている。
何よりも、自発的に、そして、偶然に好きになることが大切なのだ。
それなのに、大人、特に、教育者は、子供達に無理強いをして、子供のせっかくの才能を駄目にするのだ。
横尾忠則さんだって、自発的に、そして偶然に、ターザンや南洋一郎の冒険小説に夢中になり、ターザンや冒険家のイメージと一体化したので、芸術家になれたのだろう。
しかし、子供を無理に芸術家にしたり、演奏家にしたり、あるいは、科学者にしたりはできないのである。
あなたも、あなたのお子さんも、偶然に、自発的に好きになったものを大切にしなければならない。
たとえ、それが何であってもだ。









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