何かの本で、「インドの人達はカルマを信じているので、他人の不幸に冷淡である」と書かれているのを見たことがある。
カルマとは、業(ごう)と言われるもので、カルマの法則とは、過去、あるいは、前世で行ったことが自分に返ってくるというものである。
例えば、前世で他人をいじめて辛い目に遭わせた者が、今生では、自分がいじられる立場になって、その辛さを自分が味わうというものだ。
そのような因果応報がカルマの法則であるが、案外に多くの人達が何らかの意味で、そんなものがあるということを認めていると思う。

それで、誰かが、病気や貧困や人間関係で苦しんでいるとしても、それは、その者の過去や前世の行いの報いであるから、仕方のないことであり、黙って見ているしかないというものである。
むしろ、変に手助けしたり、慰めたりしたら、その者がカルマを解消(不幸の原因である悪い業を消すこと)するのを邪魔することになるので、余計なことをしない方が良いということになる。
ただ、他人を救ってあげたら、自分のカルマの解消になるという考え方もあるようだ。
しかし、それは、考えてみれば、案外に利己的な行いということになるかもしれない。

親鸞聖人は徹底したカルマ論者であったと思うが、仏教自体が、カルマ論の上に成り立っているのだから当然とも言える。
親鸞は、いかなるわずかな、些細な出来事も全て、過去の行いから生じていると言った。
だが、我々愚かな凡夫は、罪を重ね、次々に悪いカルマを作るので、不幸になる一方で、この世でもがき苦しむしかない。
しかし、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、どれほどの重いカルマも、阿弥陀如来の力により解消されると親鸞は教えた。
その根拠は、浄土三部経にそう書かれてあり、師の法然を含む、過去の偉大な僧達の経典の解釈によるというだけである。
つまり、別に、論理的な根拠がある訳ではない。
ただ、親鸞は、自分にはカルマを解消するような力はないので、阿弥陀如来に頼るしかなく、もし、その教えが嘘だったとしたら諦めるとまで言っており、なかなか潔い態度である。

もちろん、今の時代、親鸞の教えをそのままを受け取るのは難しいと思うが、なんとなく、カルマというものはやはりあり、そして、それをどうやって解消したら良いのか分からないというところまでは同意できる人が多いかもしれない。
そこが、いろんな新興宗教の儲けどころという訳だ。
「うちの宗教に入れば、そして、その教えを守ればカルマは解消される」
というのであろうが、そこで必ず、教団への布施(寄付)が要求され、布施しないとカルマは解消されないと言いたいらしい。
それで、宗教関係者達が生活できるというのは良いことだが、その人達が、非常に豊かな生活をしているのがバレると、「それ、おかしいんじゃない?」となるのかというと、そこは、教祖様達の説得力によって変わってくる。

早い話が、寄付をするしないは、カルマの解消とは関係がない(カルマがあるとしてしまっているが)。
念仏に関して言えば、宗教の教えと違う意味でだが、絶対に効果がある。
だから、親鸞などの教えを、信じられるならそのまま信じても良いと思うが、それは、現代人にはちょっと無理ではないかと思う。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、音として非常に素晴らしいので、効果があるのである。
それは、「アーメン」や「アジマリカン」が素晴らしいのと同じである。
それについては、いつも書いているので、ちょっと違うことを述べよう。

仏教の教えでは、この世は苦の世界であり、この世に生まれたということ自体が、かなりの悪いカルマを持っているのである。
それは、論理的に言っても、正しいことであると思える(論理を述べれば長くなるが、説明はできる)。
いずれにしても、この世に生まれたからには、それなりの苦しみは背負うものであり、生まれてから死ぬまで、何の苦難苦労もなく、安楽ということはあり得ない。
また、人生のある時点で完全に幸福になるということもない。
どれほど豊かになり、家庭や友人関係や社会でうまくいっているように見えても、決して悩みは尽きず、苦しいことは必ず起こる。
それは、どれほどの超人的な努力をする者でも、聖人のような人格者でも、王様でも同じで、完全に幸福になることは絶対にない。
完全に幸福になるのは、カルマを完全に解消して、もう二度とこの世に生まれてこなくても良くなった時である。

では、我々は、ペテン師も聖人も含め、どうすれば良いだろう?
どうしようもない。
やせ我慢するしかない。
ロサンゼルス・ドジャースのドジャースって意味を知っている人は少ないと思うが、「ペテン師集団」という意味だ。
意外に思う必要はない。
我々は誰でもペテン師だ。
彼らは、冴えたペテン師を目指しているだけだ。
しかし、どれほどクールなペテン師でも、やはりカルマを作り出し、苦しみは絶えない。
だから、苦しいことがあるのは仕方がないと諦めてしまうことだ。
それに対して、嘆いたり、文句を言ったり、愚痴をこぼしたり、慰めを求めたりしてはならない。
犯した罪の言い訳をしてもならない。
あらゆる行為は罪かもしれない。
だから、どんな時も決して言い訳をしてはならない。
やせ我慢が、人間の最も立派な状態である。
カルマの法則など知らなくても良いが、自分がやせ我慢し、他の人も、やせ我慢ができるよう導くのが、最も崇高な人間のあり方である。
念仏や呪文を唱えると、悪い状況が消えるように感じるのは、自分がカルマを飛び越えるので、世の中が夢のようなものになり、どうでも良くなるからである。









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