世間や人間を超える力を手にする方法について、簡単な題材を使って、共に考えたい。

時代劇小説『木枯し紋次郎』の中のお話だが、この作品自体は知らなくても問題はない。
江戸末期の渡世人(戸籍がない流れ者)である紋次郎は、ある時、見知らぬ男に50両の大金を押し付けられる。
男は紋次郎に、これを、遠くにいる女房に届けてくれと頼み、女房の居る場所と名前を告げると、そこから飛び出したが、男はその直後に殺された。
男は、自分が殺されることを覚悟し、たまたまそこにいた紋次郎に頼んだのだろう。
紋次郎は、その金を持って長い旅をし、あの男の女房を見つけた。
しかし、彼女は、あるヤクザの親分の女になっていて、いい身分に収まっていた。
そして、その女は、殺された夫を「甲斐性なしの駄目男」と馬鹿にしていた。
だが、紋次郎は50両をそっくり女に渡し、すっかり崩れた人間に成り下がっているその女に、「あんたも馬鹿だねえ」と嘲られながら、黙ってその場を去った。

紋次郎は、決して善人でもお人よしでもない。
目の前で女が殺されようとしていようが、小娘がヤクザに連れ去られようとしていようが、「あっしに関わりにないこと」と見捨てるのが常だった。
(そんな出来事はザラなので、いちいち関わっていたら命がいくつあっても足りないからである)
また、人の頼みごとも、義理がない限り、決して引き受けない。
しかし、上のように、無理矢理頼まれたことでも、頼んだ者が死んだ場合のように、断りを言えなかった場合や、どんなに些細でも相手に義理や恩義がある場合、または、どんなに気が進まなくても、なりゆきで引き受けてしまった場合は、命に代えても、約束を守るのである。
まとめて言えば、滅多なことで約束はしないが、いったん約束をすれば、いかに道理に合わなくても、死んでもその約束を果たすのだ。

普通の人はそうではない。
簡単に約束をするが、自分に都合が悪くなれば、それを平気で破る。
そして、約束を破ったことに関して、自分には非がない・・・仕方がなかったか、道理に合わないことであったと主張する。つまり、言い訳する。
しかし、紋次郎は、「あっしに言い訳なんざ、ござんせん」が口癖であるほどに、どれほどまずい状況になろうが、決して言い訳をしない。

紋次郎は、なぜ、そんなことをするのだろう?
言っておくが、紋次郎は、いかなる信仰も持っていない。
この世でただ一人、彼が慕っていた、死んだ彼の姉の墓に、年に一度お参りをする時だけは、手を合わせるが、神仏に何かを頼むことは一切ない。
神仏の目を気にしている訳では決してないのだ。

ここで思い出すのが、ダスキンの有名な経営理念である、「自分に対しては、損と得とあらば損の道をゆくこと」だ。
これは、ダスキン創業者、鈴木清一氏の誓いであったようだ。
現在の経営者が、紋次郎のようであれば、会社は危うからずである。
しかし、そうでないのに、この言葉を標榜し続けるなら、近く会社が傾くか、実際はすでにそうなっているだろうし、経営者の家族は悲惨なことになっているだろう。

我々も同じである。
いかなるテクニックや知識、経験、人間関係といった、世間的、人間的な力をはるかに超えるのが、上の「紋次郎イズム」である(紋次郎は、そんな言い方は毛嫌いするだろうが)。
なぜなら、これが神になる唯一の道であるからだ。
尚、紋次郎は、どれほど危機的な状況にある人が目の前にいて、自分に助ける力があっても、「あっしには関わり合いのないことにござんす」と言って、決して手を差し伸べようとはしない。
しかし、結局は関わることになってしまう。
また、反射的に助けてしまうことも多い。
宇宙とは、そのようなものであるからだ。
つまり、関わるべきことは、嫌でも関わることになるのだ。
その中で、紋次郎のように振舞うなら、運命がそうなっていれば、ダスキンのような会社を創ることにもなるだろう。
そんな会社は、神が経営するのだから、困難はあるにしても、必ず勝ち続けるだろう。









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