人間は聖人になる前に、自分の才能を発揮して活躍し、それなりの富を得たいと思うものだ。
では、自分にはどんな才能があるのかは、どうやれば分かるのかということになる。
しかし、おそらく、ほとんどの人が、自分の才能を分からないまま一生を終わるのだ。

ある大画家に対し、画家を志す人が、「描きたいものが見つからない」と言ったことがある。
そう言われた大画家の本音は、「あんたには才能がない」だったのだと思う。
才能があれば、描くなと言っても描きたいものがあるだろう。
この画家を志す人は、きっと画家というものを、美味しい職業だと誤解しているのだろう。
どんな道にしろ、才能ある人というのは、お金や名誉のことを考えない。
ミュージシャンになれるのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足できるような人だけだ。

これは、一流はあまり言わないことだが、才能にもレベルがある。
「こいつ、絵の才能があるな」、「野球の才能があるな」と思う人はいても、その才能がプロになれるほどのものかは別問題だ。
『神様のメモ帳』(杉井光)という小説で、高校時代、才能あるピッチャーと言われ、甲子園にまで出場した男が、ヤクザになったという話があった。
その元ピッチャーのヤクザも、学校や地元では、凄い、天才と言われていたのだろうが、甲子園に来てみれば、怪物みたいなのが沢山いて、自分などお話にならないということが分かったようだった。
『東京BABYLON』(CLAMP著)という漫画では、自殺した駆け出し女優の幽霊が、しみじみと、「田舎にいた時は可愛いってチヤホヤされてその気になったけど、芸能人の中に入ったら私なんか普通以下」と気付いたことを話す。それでも、プロデューサーに身体を売って端役の仕事をもらい、両親や友達に映画出演が決まったと報告したが、主演女優の気紛れで、それもフイになり、絶望して自殺したのだ。
誰にでも天才的才能というものがある訳ではないのかもしれないし、あるとしても、それは発掘されない運命なのかもしれない。
教育ビジネスで、「才能を見つける、伸ばす」なんて言ってるのは、100パーセント嘘ならまだマシで、普通の才能すら分からないように混乱させるだけだ。だから、相手にしないことだ。

ただ、あなたが子供の時に描いた落書きが、奇跡的に保存され、後の世で大芸術になるかもしれない。
世界的版画家の池田満寿夫さんは、「私の絵は便所のラクガキ」と言っていたらしい。
現在では大芸術と言われる、未開民族の呪術の道具や、縄文土器、それに、浮世絵なども、作った人は、ごく平凡な人間で、趣味程度に作ったのかもしれない。

そう考えると、真実が見えてくるだろう。
特に芸術の場合がそうだが、作品の価値なんて、何か普遍的な基準がある訳では絶対にない。
しかし、それを言うのはタブーであるのだと思う。
一般の人々は、高価な芸術品は、自分などには分からない特別な何かがあるのだと思い込んでいるが、本当はそれはない。
その価値は幻想でしかなく、その幻想を共有する人が多ければ、世間では価値ある芸術品になり、制作者は大芸術家と言われるというだけのことである。
あなたの作る作品を価値ありとする幻想を共有する人が多ければ、あなたが大芸術家なのである。
しかし、別に芸術に限らない。
今あるようなパソコンやスマートフォン、あるいは、自動車を良いとする偏見が多いので、これらが世の中に出回っているというだけのことだ。

だから、ビジネスの才能、芸術の才能というのは、実は幻想を作り出す才能なのである。
それは、ストーリーを作り出す才能と言えるかもしれない。
幻想というのは、ストーリーから生まれるものだ。
成功したければ、ストーリーを作れるようになることだ。
同じ37歳で亡くなったゴッホや宮沢賢治は、自分ではストーリーを作れず(作らず)、死語、誰かがストーリーを作ったので、大画家、大作家になったのである。









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