どこの国の昔話にも、ごく平凡な人間なのに、やたらと神様に気に入られる者がいる。
それらの話は、ある意味、実話なのであるが、そのように神様に好かれる者達の特徴は、大抵が、馬鹿がつくほど正直者であるところだが、実はそれだけではないのである。

こんな話がある。
ある商売人の男もまた、山の神に非常に気に入られていた。
それで、彼が商売で危機的な状況に陥った時、神様が夢に現れて、「お前は感心なやつだから助けてやる」と言い、実際、その男は奇跡的に破滅を免れた。
彼は、必ずしも正直者ではなかったし、商売だって、稼いで自分が良い思いをしたいというところが多分にあった。
しかし、彼は、稼ぐと、貧しい者達に施すのを楽しみにしていたのだった。
神様は、彼のそんな性質を愛でていたのだろう。

高橋 弥七郎さんの、発行部数750万部という人気小説『灼眼のシャナ』で、主人公の坂井悠二は、ごくごく平凡な高校1年生男子で、現代的には平均的なのかもしれないが、ヒロインのシャナ(見かけは11歳くらいの美少女)には、最初、男としてのあまりの情けなさに完全に馬鹿にされていた。
ところが、この坂井悠二が、異世界の神である「祭礼の蛇」にやたら気にいられ、その無敵の身体を自由に使わせるまでになる。
私は、かなり後で気付いたが、それは不合理なことではなかった。
よく考えれば、祭礼の蛇と坂井悠二は、実に似た者同士だった。
坂井悠二は、人間であった時の友人に、祭礼の蛇のことを、こう紹介する。
「みんなが喜ぶことをしようと一生懸命なんだ」
坂井悠二は、戦いに巻き込まれる中で、家族を、クラスメイトを、町のみんなを、そして、愛するシャナを守りたいと強く思った。
そして、いつか、全ての人を守りたいと思うようになったのだ。
敵としてシャナのところに戻ってきた悠二が言った言葉が非常に印象的だった。
「僕は強くなりたいと思った。そして、強く、強くなった」
彼は、棚からボタモチ式に祭礼の蛇の力を得たのではなく、祭礼の蛇に似てくることによって、祭礼の蛇の共感を呼んだのだ。

イギリスの魔法使い、ウィリアム・アーネスト・バトラーによれば、魔法とは、「心に自在に変革を起こす」ことなのだそうだ。
これは、彼が崇拝する同国の魔法使い、ダイアン・フォーチュンの魔法の定義を受け入れたのだろう。
心に自在に変革を起こせれば、それは確かに強大な力になる。
しかし、その力を持つ目的は何かと問われたら、ただ、「奉仕するため」であると言う。
これは、イエスの「私は仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た」という言葉に従ったのだと思う。
ところが、面白いことに、これはループ理論である。
その意味はこうだ。
心に変革を起こす→魔法の力を得る→人々に奉仕する→心に変革が起こる
というふうに、手段が目的になってしまうのだ。
この魔法は、ユダヤ人が持つ、旧約聖書の解説書『タルムード』の、さらに深い教えである『カバラー』からきている。
当時のヨーロッパの複雑な社会情勢の中で、『カバラー』は完全に封印されていた。
それを蘇らせたのが、フォーチュンら、現代の魔法使い達である。

しかし、世界のどの地域も、ほとんど同じ事情があった。
魔法は秘密にされ、オカルト(本来の意味は「隠れていること」)と呼ばれるようになり、やがて、「超自然現象」がオカルトの第一の意味になってしまった。
そして、本当のオカルトは、確かに超自然(スーパーネイチャー)現象ではあっても、アブノーマル(異常)現象ではない。
上にあげた、商売人の男、坂井悠二、そして、イエスの力も、スーパーネイチャーであり、アブノーマルな力ではない。スーパーではあっても、ちゃんと自然の原理に則っているのだ。
そして、スーパーネイチャーの力は、程度の違いこそあれ、誰でも手に入れられる。
その「程度の差」は、差別的なものではなく、どれほど多くの人に奉仕しようとしているかによって決まることである。
アインシュタインが言ったらしい言葉である「自分以外の者のために生きるようになって、初めて本当に生きることができる」が事実なのであり、力(フォース)は「本当に生きる」者と共にある。
何とも、この世界は希望に満ちている。









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