小説などで、とても良い父親や母親、あるいは両方が、本当の親ではなかったということを話の種にしたものが、よくあると思う。
いや、創作物だけではなく、現実にも、ある時にそんな事実を知ったという人も、それほど珍しくは無い。
あるSFドラマで、主人公の両親は死んでいて、宇宙人が入れ替わっていたが、そのニセ両親は愛情深く、主人公は気付かず仕舞というものもあった。

今の親が生物学的な親でないという場合は、その意味の本物がどこかにいる(あるいはいた)はずであるから、それが気になるというのはあるだろうが、どんな事情にしろ、それは避けられぬ運命だったのである。
事実はさほど重要ではないのである。

ところで、世間では、著名人の実体を暴こうなんてものがよくあるし、また、そんなものは人気があるらしい。
つまりは、世間の人は、その著名人の本当の姿は、知れ渡っているイメージより随分落ちるものだという話が大好きなのだ。
だが、著名人かそうでないかを問わず、他人のプライベートを知りたいなどという気持ちが強い人は、間違いなく惨めな人生を送っているはずなのだ。
それは確率で言うと、百パーセントである。
もちろん、人気者や好きな人の普段のことを知りたいと少し思うのは、自然なことである。
しかし、その気持ちが度を越していたり、「化けの皮をはぎたい」とか、貶めてやりたいと思っている者が、運に見放されていないはずがないのである。
それは、あまりに明らかなことだ。
その理由は、次のようなものである。

幸運、活力、若さ、知恵、健康の源は、自己の内面の奥深くにある。
その源につながるためには、心を自己の内部に向けなければならない。
そのためには、外部への関心を、できるだけ、内部に振り向ける必要がある。
たとえ外のものを見ている時でも、心が清らかであれば、それは純粋な心の反映であり、とても美しい。
そんな時は、外を見ているようでいても、実は、心の大部分は、自己の内面を見ているのである。
だが、他人の個人的なことを邪まな想いで見るというのは、外部への最悪な関心の持ち方であり、そんなことをすれば、内なる自己である神から完全に切り離される。

このことから、現代の世の中では、平凡な人間の多くが、惨めで不幸なのは当たり前だということが分かるのである。
あなたは、間違えても、ゴシップ(個人的な事情についての、興味本位のうわさ話)に強い興味を持ったり、それを追いかけようなどと思ってはならない。
それによって得られる快楽は、あまりに重い負の代償である。
実の親という身近なものについてさえ、余計なことを知ろうとすると、ロクなことにならない。
まして、自分と関わりのない、単に、興味をそそられるような人気者、著名人であれば、尚更なのである。
なぜなら、そうであれば、意識は外に出て行く一方になってしまい、内なる貴いものとの断絶がどうにもならないほど、大きくなってしまうのだからだ。
逆に、ゴシップへの強い関心をなくすだけで、普通の意味での人生の快適さ位は得られるのである。
だが、ゴシップから離れられない者は、目を背けたくなるほど醜く、力はなく、不運で、財にも健康にも恵まれず、惨めであるしかないのである。









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