一休さん(一休禅師)は、阿弥陀如来の国である西方極楽浄土は西にあるのではなく、南にあると言ったらしい。
実は、この「南」とは、「皆身」ということで、「全てはこの身の内にある」という意味だ。
それは、身体を心の入れ物と見なし、その心の深いところに極楽浄土があるということだ。
だが、心は、西に沈む夕陽のようでなければならない。
淡く照らされた物質世界を夢と見なし、この世の一切に執着せずに消えていく・・・そんな心だ。

だが、天照大神のように、岩戸に閉じこもってしまうと、闇の中で魔物が蠢(うごめ)き、外の騒ぎが気になって仕方がなくなる。
天の岩戸を出た天照大神が、その後、表立った活動をせず、ただ、思惟し、命じたように、我々は夕陽のようでなければならない。

外側・・・つまり、物質世界に強い関心を持たず、意識を内に向けると、外界は内側の反映に過ぎないことが分かる。
だから、外側を澄んだ目で見れば、それは、自分の内側を見ることになる。

音楽には2種類ある。
意識を外側に向かわせるものと、内側に向かわせるものだ。
刺激的な音楽や、上手い歌、巧妙な演奏は、意識を外側に向かわせる。
そんな音楽には、少しの間聴いている分には、心が躍って楽しいものがあるが、やがて疲れてきて、イライラしてくる。
本当に優れた演奏というのは、自然の音のようなもので、演奏している者にも、自分が演奏しているという気持ちはない。
それが、技術を超えた技術だ。
『荘子』の『養生主編』で、王様の前で牛をさばいて見せた名料理人の包丁(ほうてい)は、王に「神技だ」と誉められると、「これは技にあらず。技を超えたもの。あえて言えば道であります」と言ったのも、同じことであった。
名料理人包丁は、目に見える牛の姿をもはや重視していない。
そうなった時、心も身体も自在に動き、人間を超えた力を発揮する。
最高の演奏も同じなのである。
だから、良い音楽は、意識を自然に内側に向かわせるのだ。

これで、感覚を外に向けず、内側に向けることの重要さが分かると思う。
だが、外側を頑なに無視すると、かえって感覚は外に吸い寄せられてしまう。
外側には、適度な、執着のない感覚のみを振り向けることだ。
どれほどの宝や美しいものを見ても、夕陽に照らされた淡い夢のようなものと見なし、執着しないことだ。
そして、内側に意識を向けていることだ。
「私」と言うべきものは、外側にあるのではない。
身体という仮の宿に留まる何かが私である。
それは、心臓の近くの神経と結び付いていることが、聖典に示されている。
だから、胸に意識を置き、「私」という想いだけを持つことで、意識はそこからどんどん内側に沈んでいく。
それをたゆまず続ければ、やがて源に至る。
本当に優れた演奏を聴くことも有益であるが、意識が深く内に潜っていけば、やがて、それすら聴こえなくなり、天界の音楽を聴くことになる。

見えるものに心を奪われないことだ。
それらは皆、幻なのだから。
執着せず、嫌わず、ただ、見えるままに見て、過度の関心を持たず、自分の心の動きを観察することだ。
自分の心を見張っていると、意識は内側に向く。
そうすると、外界は、内側のフィルムがスクリーンに照らされただけの幻影だと分かる。
意識が内側に深く潜ると、内側のフィルムも消えてなくなる。
私は、『声と言葉のアリア』という、とても美しい歌を毎日聴いていて、そんなことを感じた。

わたしの体が今からここで
溶けはじめていくのを
見ててほしいわたしもあなたを
見てるから まぶしい
~『声と言葉のアリア』(オペラ『THE END』より。制作:渋谷慶一郎。歌:初音ミク)より~









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