あなたの周囲には、あなたの注意を「外にある物質的な何か」に向けさせようとする「意図」に溢れている。
それは、「テレビ番組」、「アイドル」、「スポーツイベント」、「美食」、「美味しいコーヒー」、「スマートフォン」・・・等々、非常に沢山ある。
人々を大勢取り込むことができれば儲かることを心得ている者が、あなたの周囲に罠を張り巡らせているのだ。
そして、支配者にとっては、人々の注意を外に向けさせれば、無能者に留めておけることが狙いである。
あなたは、新発売の人気商品に心を奪われることで、惨めで弱い奴隷になるのである。

また、人は、注意を外に向けてばかりいると、外にある、一般的で粗悪なモデルに倣って生きることになる。
年齢と共に老化し、世間の教義の通りに生きる。
確かに、世間の道徳に従う可能性も高いが、それは、条件付、制限付の善である。
例えば、家族、友達、グループに対してのみの善であり、そこから外れた相手は善の対象ではなく、どれほど苦しもうが、死のうが、何の関心もないということになる。
いずれにしても、注意が外にばかり向いていると、地上を這う虫けらのような存在にしかなれない。

『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナは、感覚を外側から一切引き上げ、内に向けよとアルジュナである我々に説いているのだ。
もちろん、目を閉じ、耳を塞いでは生きてはいけない。
だから、荘子は、「視線を自然にし、あるがままに見ろ」と言ったのだ。
それは、見える物、聴こえる音に、過度の関心を持たず、さりとて拒否せず、心静かにしていなさいという意味である。
そして、注意を内に向けるのだ。
具体的には、まず、自分の心の動き、それに呼応した胸の感覚を意識することだ。
心の負担、痛み、不安や恐怖は、胸の痛みや圧迫感をもたらすからだ。
だから、胸に意識を集めると、自分の心を把握し易い。
そして、やはり胸の感覚と融合した、最も重要な想いである「私」に意識を集めると、意識は内側に深く潜っていく。
内側への道はかなり長い。
しかし、それをたゆまず進めば、あなたはついにたどり着くだろう。
たどり着く先、そこは、いろいろに呼ばれている。
天国、エデン、エリュシオン、桃源郷、ザナドゥ、極楽浄土などだが、それらは、外にあるのではなく、内にあるのだ。

大きな恐怖に襲われながら、あるいは、強い苦しみを受けている中で、偶然ということもあるが、意識が内に向いていると、ものすごいスピードで内側に突き進むことがある。
その時、火事場の馬鹿力というものが発揮される。
か弱い母親が、トラックの下敷きになった子供を救うために、オリンピックの重量挙げ選手以上の力を出したり、窓から転落する子供を救うために、後で物理学者が計算したら、サンダル履きのまま、オリンピックの短距離選手をも上回る速さで走ったりなどである。
こういったことは、肉体的なことに止まらない。
たとえば、せいぜいが日曜音楽家に過ぎない技術軍人が、偶然の強い高揚感に包まれた夜、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を一晩で創ったのだ。

だが、あなたは偶然に頼る必要はない。
原理は分かったのだから、外側のものに対して、あまり関心を払わず、意識を内側に向けるのだ。
誰かが、ラマナ・マハルシに、「外側に注意を向けずに仕事なんかできないよ」と言った。
だが、マハルシは言う。
「いや、あなたが注意を向けなくても仕事は自動的に進む。国家の財務長官は、傍目には、熱心に責任感を持って働いているが、彼は何もしていないのだ」
分かるだろうか?
仕事でミスをし、無責任な仕事をする者というのは、仕事以外の外側の何かに意識を向けているのである。
そうでなければ、仕事は仕事自体で進んで行く。
しかも、その仕事は、無駄な注意を向けた時よりはるかに完璧になるのだ。

自分の心の動きを観察するのも良い。
胸に意識を集めつつ、「私」と想い続けても良い。
あるいは、心の中の神について黙想しても良い。
これといった決まりはない。
大切なことは、注意(あるいは感覚、意識)を、外側に向けず、内側に引き取ることだ。
それによって、あなたは、キリストに、仏陀に、神に、超人に、神人に近付いていく。









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