神仏に願い事をする時、もし具体的に願う相手(神仏)を決めたいなら、阿弥陀如来か観世音菩薩が良い。
なぜなら、この2柱の仏は、極めて慈悲深いからだ。
古事記やギリシャ神話、北欧神話、ケルト神話、あるいは、インド神話の神々というのは、どこか、くせがあったり、恐ろしかったりして、どちらかというと、福をくれるからというよりは、機嫌を損ねて災いを受けないために祭ることの方が多いのだと思う。
仏教の仏様にしても、大日如来は密教の仏様で、どこかつかみどころが無いし、他の仏様、菩薩様も、個人的にものを頼める相手ではないように思う。
だが、阿弥陀如来や観世音菩薩は、一人一人に対応してくれることで知られている。
だから、願い事がある時は、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」と言っても良いし、普通に、「阿弥陀様」「観音様」と言っても良い。
ところで、観世音菩薩は、この世で人間を救うのだから、より頼み易いが、阿弥陀如来は、死後、極楽浄土に迎え入れて、そこで悟りを開かせてやる役目のように思われているかもしれない。
これに関しては、一休さんが、極楽浄土は遠いところにあるのではなく、今、この場にあるのだと言い、伝統的な考え方にこだわらないよう教えている。
ただ、阿弥陀如来に頼べば、観世音菩薩や勢至菩薩がこまごまと世話を焼いてくれるそうであるから、どちら(阿弥陀如来と観世音菩薩)に頼んでも同じことになる。
阿弥陀如来が仏様で、観世音菩薩は菩薩様なので、力に差があるのかというと、阿弥陀如来はもちろん、全知全能、宇宙最強なのであるが、観世音菩薩も本来は仏様なのである。ただ、観世音菩薩は、かたじけなくも、人々を救うために、自主的に菩薩の地位に下りてきてくれたのである。
また、『観無量寿経』に書かれてある通り、実を言うと、阿弥陀如来と、観世音菩薩、勢至菩薩は、ほとんど違いはない。
そして、観世音菩薩と勢至菩薩は全くと言って良いほど同じである。

神仏に願い事をする時、後ろめたさがあるなら、自分の中にやましさがあるのである。
そして、やましさがない人間はいない。
しかし、やましい・・・つまり、良心が咎めるというのは良い感覚で、それを感じるのは健全なことである。
やましさを感じなくするためには、無になる、つまり、忘我、没我、無我になれば良い。
そのためには、「文句を言わない」練習をし、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」練習をすれば良い。
後ろめたさがあっても、観世音菩薩は願いを聞いてくれるが、こちらの方で、「いや、あの・・・やっぱりいいです」と言ってしまうものである。
そんな時、観音様は、黙って待っていて下さるのである。
『観無量寿経』を読むと、心があっけらかんとしてきて、仏様に対して気楽になる。
つまり、心にかげりが無くなるのだ。
すると、願い事もしやすくなるだろう。

言うまでも無く、仏様や菩薩様というのは、レトリック・・・つまり、うまい喩えではあるのだが、心の深層のイメージを巧みに表したもので、そのまま素直に受け取って構わない。
人間は、具体的な形で表現しないと分からない。
宗教は、元々は簡単なものだったのに、権威を作るために複雑化し、そして、形骸化してしまった。
本当に偉い坊様ほど単純なことを教えるものである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ