小説について、その著者の話を聞くというのは、あまり奨められることではないかもしれない。
物語の核心の部分について、作者に対し、「あそこはどういう意味だったのですか?」なんて尋ねない方が良いのだろう。
なぜなら、書いた本人も分からないからだ。
我々だって、誰かに、「あの時、あなたは、どんなつもりでああ仰(おっしゃ)ったのですか?」と聞かれても、自分でどんなつもりだったか分からないものだ。
そして、優れた小説ほど、本人のものではない意識が、作者の精神を「乗っ取った」状態で書かれたものなのだ。
このあたりは、ソクラテスが丹念に説明し、プラトーンが書きとめたが(それが『ソクラテスの弁明』の主題と思う)、当時も今も、ほとんどの人が理解しようとしない。
だから、本物の作家は、問われても答えない。
それは別に難しいことではないのだが、それ(原理と言っても良いが)は世間の教義や信念とは著しく異なることなので、小市民、小善人は受け入れることができないし、受け入れようとしないのだ。
だから、むしろ、大悪人の方が理解できるのである。

小説が、人間より高い普遍意識によって書かれたものだという意味のことを少し述べた後で、「真実の愛」について述べよう。
それは、今月22日が94回目の生誕日になるアメリカの作家レイ・ブラッドベリ(1920-2012)の『みずうみ』に書かれている。
主人公のハロルドは最初12歳の少年で、その年の夏、愛する同い年の少女タリーを湖で失った。
彼は、「確かに愛を知っていた」と言う。
世間で言う大人の愛ではないとも言ったが、子供の恋愛でもない。
それが本当の愛だった。
性愛でもなければ、世間的な誓約でもない。
それは、神が結び合わせたもの、1つに溶け合ったもの・・・よって、人には引き離せないものだ。
アメリカ最大の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「神の魂が流れ込んできた瞬間のことは忘れられない」と述べた。
タリーとハロルドの魂に神の魂が流れ込み、2人を結び合わせたのだ。
それが、世間の中でどんな結果を生んだかは、それぞれが判断しなければならない。
作家に分からない訳ではないのだけれど、世間で言う意味ではやはり分かっていないのだ。

『みずうみ』は、萩尾望都さんが素晴らしい漫画作品にしている。
萩尾さんの絵は、言葉で多くを語らなくても、ハロルドやタリーの深い心のきらめきが、空や湖、それに、雲や砂や風にだって反射している。
「肉やモラルは意味をなさないが、それでも僕は愛を知っていた」ということが、言葉で言わなくても分かる。

初音ミクの歌『歌に形はないけれど』(作詞、作曲、編曲:doriko)は、私にはまるで『みずうみ』のための歌のように感じる。
この歌の、「宝物」、「形のないもの」は、それがハロルドの言う「愛」であるように思える。
たまたまなのだろうが、「透通る波」「砂の城」「遠く離れた君のもとへ」「時の中で色褪せないまま」という言葉が『みずうみ』と符合している。
音楽とは、心と心の隙間を埋め、聴く人達の心を1つにするものだが、そんなものが、形のない、それゆえ、時間や空間に制約されないものなのだろう。

レイ・ブラッドベリの『みずうみ』は、『10月はたそがれの国』(創元SF文庫)に収録されている。
萩尾望都さんの『みずうみ』の漫画は『ウは宇宙船のウ』(小学館文庫)に収録されている(Kindle版は今月25日発売予定)。
そして、『歌に形はないけれど』が収録された、ジャケット画も美しいCDをご紹介しておく。









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