もう随分前からの話だが、小学生が、事業中、座っていることもできず、当たり前のように席を離れて、自分の好きな時に好きなところに行き、好きなことをするのだが、それを止める方法がないのだそうだ。
そんな子供は可哀想なもので、そんな習性を治すのは難しいだろうし、治らない限り、一生、願いを叶えることはできないのだ。

なぜそんな子供になったのかというと、早い話が、忍耐がないのであり、なぜ忍耐がないかというと、親が、子供の要求を何でも叶えてやるどころか、子供が望む前から、先回りして叶えてやっていたからだ。
今は、特に母親にそんな馬鹿が多い。

この世は所詮、忍耐を磨くためにあるのだが、忍耐の意味を知らない人が多いのである。
なぜ、誰も忍耐の意味を知らないかというと、世間が利害打算を崇拝しているからだ。
利害打算と忍耐は何の関係もないが、世間の人は利害しか考えないので、忍耐が分からないのである。
忍耐とは、自我を卑小なものとみなし、自我の欲求を抑え、無になることである。
そのために、真に偉大なものの存在を認め、それを自我の上位に置き、自我はひたすら身を屈めることである。
『老子』22章の重要な言葉、「曲則全(屈するものは万全である)」の通りである。

理想的な親子の関係はこうだ。
別に一緒にご飯を食べる必要はないが、一緒に家にいる時は、少しはあった方が良い。
一緒に飯を食うことが大切だと思っている愚かな親が多いが、そんな親は、本当に重要なことを知らないのだ。
ある日、父親が家にいると、子供がやってきて、黙ってそこにいる。
立っていても、座っていても良いが、子供は黙っている。
賢くない親は、すぐ子供に、「何が欲しいの?」と聞き、子供も、そこで要求を言い、馬鹿な親はそれを叶えてしまう。
だが、賢い親は何も言わない。
子供も何も言わない。
時が流れる。
十分に待たせてから、親はやっと言葉をかける。
「暗くなってきたな」
「うん」
「何か要るのかな?」
「うん」
子供の要求によっては、そこからさらに沈黙を続けることになる。
そして、親は言うのだ。
「そろそろ寝る。よし、話は分かった」

これに比べれば、どうしても親の都合がつかないなら、学校なんて1日休んでも何でもない。
(親は仕事を休んではならないのは当然である。合わせるのは子供の方だ)
こんな子供は、大人になってからも、どんな願いも叶える。
この世は忍耐を磨くためにあるのであり、神様と根競べをするところであるのだからだ。
相手が親から神様に代わり、より大きな忍耐を発揮し、より大きな願いを叶えるのだ。
神様を別名、親様と言うのはそのためで、正しく、神様は親なのである。









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