学校というのは何のために行くのかというと、修行のためであり、主に、人間関係をこなす訓練をするためである。
修行を終えることができれば、つまり、人間関係をうまくこなせるようになれば小学校だけで十分で、修行が終わらないと、大学、大学院が必要になるが、それでも終わらない人もいる。
実際、小学校中退くらいでやっていける者が最も優秀だ。
学歴と能力、実力は何の関係もなく、本来の実力が発揮できれば、小学校中退~中卒でも十分に活躍したり、大きなことをやっている人はいくらでもいる。
ロケットを作る科学者等や医者になるなら一応話は別だが、将来、人類がUFOのようなものを作るようになれば、その構造は実は単純であることが分かるだろうし、医療は必要なくなる。
いや、高度な知恵は学校の勉強とは全く無関係であり、むしろ、学校がそれを妨げるだけのものであることが分からなければならない。
学校とは、学ぶところではなく、あくまで修行の場であり、教師は、愚かな人間の見本としての反面教師として存在するのであり、生徒達も修行中のロクデナシであることを、当然のこととして認識する必要がある。

会社は何のために行くのかというと、給料を貰うためである。
断言しておくが・・・と言う必要もないほど当たり前のことなのであるが、会社の中で夢を実現できるとか、生きていられるのは社長一人である。
ただ、親会社の言いなりの会社だったり、会長が実質支配しているなどで社長に実際の経営権がない場合は、その会社で生きている人は一人もいないと言って差し支えない。
このことは、全ての人がはっきり自覚し、意識しなければならない。
実権のある社長でもないのに、会社が生きがいだとか、ここで夢を叶えるなんてのは、愚かも度が過ぎる滑稽なことだ。
それは、部長はおろか、常務、専務、副社長であろうが全く同じで、社長以外は全部ヒラと同じなのである。
独立して起業したり、自営をやったり、フリーになれば、自分が社長なのだから、夢も追えるし、生きることができる。
たとえニートであっても、経済的に自立しているなら、社長と全く同じであり、夢の実現は可能である。
だが、自立して経済的にちゃんとやっていけるようになるまでは、学校の延長として、会社で修行するしかない。
会社は、給料をもらいながら修行を続けられる場所で、落第生のための補習用の学校、あるいは、刑務所のようなものである。
専務になろうが、副社長になろうが、人間関係の修行が終わっていないので、訓練を続けているだけであり、学生気分、囚人気分で当たり前なのである。
だから、学校同様(むしろ刑務所に近いのだが)、会社の中も、修行の終わらない、未熟な馬鹿ばかりなのは仕方がないことと認識しなければならないのである。

人間関係の修行が終われば、木枯し紋次郎のようになるであろう。
また、本来の任侠道は、最短時間で修行を終えられるものであったはずなのだ。
木枯し紋次郎が無宿渡世の道に入ったのは、それしか選択肢がなかったというより、無意識のうちに、そのことが分かっていたからなのだろう。
ただし、本物の任侠道は、紋次郎の時代ですら少なかったに違いない。
しかし、現在でも、おそらく、滅びてはいないだろうと思う。
無論、我々は、学校と会社で修行すれば良いのであり、修行が終われば、一人でちゃんと生きていけるようになるのである。









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