世間的な考え方からすれば、親鸞と木枯し紋次郎は真逆(逆を強調した俗語)である。
親鸞は自力を徹底的に否定して仏の力を頼り、紋次郎は自分だけを頼みとする。
親鸞は、善いことをしてはならないと言う。
善いことをしようなどというのは、まだ、自力を頼む心があるからであり、仏に頼りきっていないからだと言う。
だが、紋次郎は、仏に縋っているうちは弱いんだと言い、経や念仏に何の価値も感じない。
紋次郎も、善いことをしようなどとは、これっぽっちも思っていないが、それはただ、そんな余裕がないからであると思う。

親鸞は、悪いことをしても、決して後悔するなと言う。
(ただし、好んで悪を行う必要はないとも言ったが)
紋次郎は、善悪ではなく、渡世の義理という、一種の掟に絶対的に従っている。
その掟とは、堅気の者(働いて生活しているまともな人)を自分より上位に置き、決して危害を与えないこと、受けた恩は必ず返すこと、女子供に刃を向けないこと等々で、もっと深いものもある。
そして、紋次郎は、知らずにやったことであれ、掟に反したことをやれば必ず償う。
ただし、紋次郎は、善悪を問題にしているのではなく、あくまで、相手に与えたマイナスに対してプラスを返すだけなのである。
義理を果たした(掟に従った。恩を返した)結果、誰かに不幸や災いを起こしてしまったこともあるが、それに関しては、知ったことではないのである。
義理とはいえ、誰かの善意や愛情に報いた時に、ほぼ必ず皮肉な結果になるところが、著者、笹沢佐保さんのニクいというか、さすがなところであると思う。
ここらも、親鸞と紋次郎は同じだと感じるところである。

そして、決定的に紋次郎が親鸞と全く同じだと思うことがある。
紋次郎は、決して好んで争わないが、身にかかる火の粉は払う。
その時は実に強い。
20人とかいった大勢の敵を相手に切り合うと、最後の一人まで必ず切り殺す。敵が怯えていようが、命乞いしようが、いったん戦いになれば、決して見逃さない。
痩せてはいたが、大人の娘さんを背負ったまま10人の敵と戦い、さすがに最後の一人というところで精魂尽き果て、大したことはない相手にあわやということになったこともあるが、それでも勝つのである(戦いの後、あまりの疲れに身体に変調をきたしたが)。
絶対に勝てないはずの剣術の達人と戦っても、機転、策略で切り抜ける。
(宮本武蔵も策略は大いに勧めた。戦いはスポーツではないのである)
だが、どんな戦いに勝利した時も、紋次郎は、「俺って凄いな」などと決して思わないし、それどころか、「俺も中々やるじゃないか」と自己満足もしないのである。
たまたま勝った、たまたま死ななかったというだけのことで、それ以外の何でもないのである。
確かに、紋次郎は自分しか頼らないが、自分の力を誇らないのである。
これこそが、親鸞が最も意図していたことではないだろうか?

仏教の専門家だろうが、大きな寺の偉い僧であろうが、高僧と崇められる聖人であろうが、親鸞と紋次郎が全く同じと分からないなら、親鸞や浄土仏教が何も分かっていないということであり、何の役にも立たない仏教しか持っていないのである。
ちょうど、一休さんが、竹光(竹で作った刀)を持ち歩き、「世間の坊さんはこれと同じ。人を殺すことなんてできやせぬ。まして、生かすことなどできやせぬ」と言ったようなものである。









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