ジッドゥ・クリシュナムルティは、人生の最終目的は自由だと言ったのだと思う。
しかし、彼は、それが具体的にどんなものか言わなかった。
それをもって、かえって、彼の思想を深遠なものと捉えた人は多いと思うが、私は、彼は実際は分かっていなかったのじゃないかと思う。
自由とは何だろう?
それは、束縛がないことだ。
だが、生きて行くための収入を得るために働くと、仕事や雇い主に束縛される。
仮に、自分の農地を持っていて自給自足が可能だとしても、やはり、労働に束縛されるのだ。
そもそも、農地を持つことで、多大な束縛を受けるはずだ。
そこで、そういった外面的な束縛は、精神の囚われがなくなれば我々を苦しめることはないので、自由で囚われのない、大きな澄み切った心を持てば良いことになる。
だが、クリシュナムルティは、どうすれば、透明で果てなく広大な心が得られるのかは教えなかった。
彼も持っていなかったのだ。
彼は卓越した思想家ではあったが、真理の周りを回るだけで、真理に飛び込むことができなかった。
彼の本をいつまで読んでいても自由になれない。
本に書かれた思想は素晴らしく、美しいとさえ言えるかもしれないが、自由でない人が書いた本が、誰かを自由にすることはない。

岡本太郎は、縄文土器を大変に賞賛していた。
縄文土器は、無限のエネルギーを持つ者が創ったものだ。
無限のエネルギーを持つ者・・・それは囚われのない者だ。
だが、次の時代の弥生土器には、縄文土器のような力は感じられない。
だが、我々は弥生土器を見てほっとする。
我々と同じ人間が創ったことを感じるのだ。
つまり、弥生人の心には囚われがあった。
だが、我々ほどではない。だから、弥生土器を見て、どこか安らぎを感じるのだ。
岡本太郎は、縄文土器に現れた空間感覚は、間違いなく狩猟民族のものだと断言した。
それは、考古学的にも正しいと思う。
縄文人が、獣を狩ったのか、魚を獲ったのか、木の実を集めたのかは分からない。
おそらく、やれることをやったのであり、その全てができるなら、全部やっただろう。
労働なんかしなくても、そこにあるものを食べて生きていたのだ。
だが、穀物を作るようになって、人々は労働に束縛された。
労働が楽しいはずがない(煩わしい人間関係も労働の内だ)。
それでも、皆働いた。
なぜだろう?
穀物には、労働に耐えるだけの魅力があったからだ。
その無力とは、小麦や米の、ほのかに甘い味である。
それは麻薬と同じようなものだ。
米や小麦で作ったものを食べれば身体を損なうことは、感覚の優れた古代人なら分かっていたと思うが、それでも抗えなかったのだ。
そして、米や小麦の所有量が富となり、支配者、被支配者の区別ができた。
土地や奴隷が、穀物や穀物に換算した貨幣で取り引きされ、これが現代文明の基になっている。

ここらで結論を言うと、穀物の束縛を持たなければ自由になれるのである。
新庄剛志さんがアメリカ・メジャーリーグのニューヨーク・メッツに入団する時、「僕は米を一生食べなくたって平気です」と言い、もっと古くは、プロレスのジャイアント馬場さんも「俺は米のご飯を食べなくてもやっていける」と言った。
彼等は、普通の人に比べれば囚われがなく自由だった。
だが、新庄さんはパンが大好きだったし、馬場さんは餅と餡子が大好きだった。
もし、米も小麦も、それらから作られるものも一切食べずにいられるなら、自由になれる。
それに近いのは、江戸時代の運命鑑定家、水野南北だった。
彼は、一合の酒以外は、米から作られたものを一切食べなかった。
しかし、彼は、その一合の酒にだけは束縛されたのだ。
さて、あなたはクリシュナムルティも得られなかった自由に挑む気があるだろうか?









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