私は、小学生の時、給食のパンを食べるのが苦痛だった。
低学年の頃は、全部食べるのは全く不可能だった。
しかし、食べないと怒られるので、いかに教師の目を欺いて、パンを机やカバンの中に隠してしまえるかが、毎日の私の戦いだった。
私は別に、病弱だったわけでも、胃腸が弱かったわけではなく、健康で、身体も平均より大きかった。
そして、今考えれば、あれが当たり前だったのだ。
以前は、食欲がないから食べられないのだと思っていたし、教師や親の大方の言い分は、「贅沢に育ってしまったので、給食のパンが食べられない」ということなのだろうが、馬鹿げた難癖である。まるでヤクザだ。
子供の純粋な感覚は、パンをそんなに食べちゃいけないと感じて、食べたくなかったのだ。
また、やはり子供の時、朝は、トーストを食べさせられたが、これも、1枚食べるのが苦しかった。
それでも何とか食べていたが、ある日、父親が母親に、善意であるのだろうが、「1枚じゃ足りない。2枚にすべきじゃないか」と言っているのを聞いた時は、本当に憂鬱になったものだ。

また、私は、「ご飯の進まない」子だった。
夕飯の時、茶碗一膳のご飯をなかなか食べてしまえず、時にはそのことで両親に叱責され、挙句、父親には、「おやつばかり食べてるんだろう」と言われる始末だった。
しかし、やはり、食欲がないのではなく、米のご飯を食べることが嫌だと感じていたのだ。
今も変わらないと思うが、特に昔は、ご飯を何杯もお代わりする子が、元気な良い子とされる愚かな観念が世間にあった。
漫画の『オバケのQ太郎』で、Q太郎はご飯を20杯も食べるらしいが、同じように食べたアントニオ猪木さんは若い時に糖尿病になり、今だ治療をしているらしい。

ご飯やパンを沢山食べられるようになったら一人前、つまり、大人だとでもいうような風潮の中、人々は、ご飯やパンを食べ続けているうちに、これらに含まれる、糖に変わる炭水化物の中毒になり、それが原因で得体の知れない不安を背負うようになり、やがて、完全な奴隷状態となるのである。
自分はご飯やパンを食べないと生きられない、あるいは、ご飯やパンを食べずに生きることが奇妙で不自然に感じるなら、自分は国家や世間の奴隷になっていると考えていただいて差し支えない。
これは、砂糖についても言えることである。

私は、今月(2014年3月)の21日に、ついに、米、パン、そして、砂糖から解放された。
奇跡的な神仏の導きがあったのであるが、記すと、非常に長くなるので省く。
ただ、これまで、いくらか念仏を称えるようになっていたところ、偉大な数学者の岡潔が毎朝、熱心に念仏を称えていたことや、阿弥陀如来を信仰した中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説によって励まされ、それまでの1ヶ月はいくらか熱心に念仏を称えていたことのおかげであるのかもしれない。
まさに、親鸞が和讃の中で述べたように、伝教大師(最澄)が、「飢饉、疫病に苦しむ人々を救うために念仏を称えるべきです」と天皇に薦めたとおりである。

山家の伝教大師は
国土人民をあはれみて
七難消滅の呪文には
南無阿弥陀仏をとなふべし
~親鸞『現世利益和讃』より~

そして、人間の幸不幸の鍵は、人類が1万年前に栽培を始めたと言われる、小麦から始まった、米やトウモロコシなどの、炭水化物を主成分とする穀物を断ち切れるかどうかである。
初音ミクの歌『1/6』で、ミクは、「いつか重力のクサリを 断ち切り君を連れてサテライト」と歌うが、米やパンや砂糖を全く食べない身体のミクが私を高いところに連れていってくれたようだ。
冨田勲さんの、『イーハトーヴ交響曲』の『注文の多い料理店』で、ネコの妖怪に扮した「妖怪ミクちゃん」(キュートな尻尾をぐりんぐりんと動かすミクが悪者の妖怪であるはずがない)が、「あたしは初音ミク かりそめのボディ」と歌うが、この「ボディ」の部分を、冨田さんは、「おどし」がかかるほどインパクトを与えた。
そして、「妖しくみえるのは かりそめのボディ」と続く。
ミクのボディはかりそめかもしれないが、妖しく美しい。
ミクの、「ボディ」と言う「おどし」は、我々に向けられている。
「あたしの身体はかりそめのものですが、今のあなた達の身体は重いクサリに縛られてしまっています」
と言っているかのように感じるのである。









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