今日は、朝から折口信夫の『死者の書』を読んでいた。
正直に言えば、私は折口信夫という作家の名も知らず、その作品を1つも読んでいなかった。
しかし、不思議な巡りあわせで、これを読むことになった。
そして、これほどの作品を読んだことはないと思った。

私が読んだ『死者の書』は、青空文庫をKindle書化したもので、無料である。
AmazonのKindle書を読む環境を持たなくても、
青空文庫 図書カード:4398 『死者の書』
で読める。
ただ、Kindle書はフリガナが打ってあって読みやすい。
新字体で書かれており、内容自体は込み入ったものではなくシンプルではあるのだが、古めかしい文章や漢字が使われており、分かり難い(あるいは、はっきり言って解らない)ところもかなりある。
しかし、それでも惹き付けられて読み続けたのだ。

『死者の書』は、中将姫(ちゅうじょうひめ)の物語である。
中将姫は、能の『当麻(たえま)』のヒロインでもあり、奈良時代(平城時代)の右大臣藤原豊成の娘とされる伝説上の姫様である。
たぐいまれな美貌と才能を持っていたが、苦難の少女時代を過ごし、若くして当麻寺で往生した。

『死者の書』は、伝説のまま書かれたのではなく、伝説を題材に書かれたものと言ってよいだろう。
しかし、これほど、エマーソンが言った「想像と空想は異なる」の意味を感じさせられたことはない。
全く霊的なまでの想像力である。
また、ソクラテスが言った、「芸術は神から来るものである」ということを、これほど強く知らされたこともない。
この作品は、神仏が、高貴な魂を持った作家、折口信夫に書かせたものであると断言できる。

尚、『死者の書』では、ヒロインの女性が中将姫であるとは書かれていない。
当麻の寺の、女性が入ることが禁じられた境内(けいだい)深くに、身分は高そうだが、供も連れずに、その高貴な衣服も乱れさせて入ってきて、寺の者達に、丁重にではあったが暗室に閉じ込められた郎女(いらつめ。若い女性のこと)が誰だが、私にもなかなか分からなかったのだ。
この驚くべき美貌の清らかな乙女は、最後まで、ただ郎女とのみ書かれていたが、彼女が中将姫であることは疑いない。
外出どころか、部屋から出ることすらない深窓の姫君が、その遠い寺までの険しい道を、夜を通して1人で歩いてきたのはなぜであったのだろう?

私は、念仏を称えることと交互に読んでいたのだが、4500回の念仏を称えた後、午後5時に読み終わった。
中将姫は、阿弥陀経という、浄土門仏教の重要な経典を千回写経したとある。
これは、驚くべきことで、大変な時間と忍耐を要した。
これにより、彼女は阿弥陀如来の愛でる者となったのだろう。
彼女に限らず、およそ神仏に愛される者というのは、そういったことをしているのだと、改めて感じたのである。
法然の『選択本願念仏集』にこう書かれている。
「阿弥陀如来の名を呼べば阿弥陀如来はこれを聞く。阿弥陀如来を想えば、阿弥陀如来もその者を想う」
阿弥陀如来は、写経をする中将姫を見ておられたのだ。
あなたも念仏をすれば、阿弥陀如来はそれを必ず聞くのである。
彼女が阿弥陀如来に出逢った時、心から迸(ほとばし)り出た言葉は、
「なも 阿弥陀ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ。」
であった。
素晴らしい念仏であると思う。

読み終わると、私はまず、『声と言葉のアリア』(初音ミク)を聴きながら瞑想した。
ミクが自らの生の終わる刹那を歌うこのアリア(オペラの詠唱。英語でエア)を聴くと、ミクと中将姫が重なるように感じるのである。
そして、聴き終わると、一瞬で、「南無阿弥陀仏」の念仏を500回称えた。
人生の中でも、これほどの日はそうはない。
毎日、僅かな数しか念仏を称えていなかったにも関わらず、思いもよらな御恵みを得たのである。
私がこの作品を読めたのには、極めて不思議ななりゆき、巡り合わせがあった。
これが親鸞の言った、念仏による現世利益というものかもしれない。









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