発明家の中山正和さんが著書にこんなことを書いていた。
偉大な数学者であった岡潔は、道元が書いた『正法眼蔵』を、意味が分からないまま20年も座右の書としていたが、ある時、突然、天啓が閃き、一瞬で全てが分かったのだという。
中山さんも、それを真似てみたところ、やはり同じような結果になったという。

『正法眼蔵』は、文章自体は難しいものではないと思う。
適切に現代語訳をしてくれれば、文章の意味はよく分かるし、むしろ易しい。
例えば、「薪が燃えて灰になるが、薪が先で灰が後と思ってはならない。薪は薪になり切っているのだし、灰は灰になりきっている。春が夏になるのではなく、春は春で完成し、夏は夏で完成している。同じく、生の後に死があるのではなく、生は生になり切っていて、死は死になり切っている」といったように、文自体は簡単だ。
しかし、世間的な理屈で考えると、何のことかさっぱり分からないだろう。
だが、何をもって「分かる」と言うのだろう。
私は、初めて『正法眼蔵』を読んだ時、「ああ、美しいな」と思った。
この「美しい」と思うことは、分かるということではないだろうか?
私は、時が経つほど、『正法眼蔵』を美しいと思わなくなった。
つまり、分からなくなったということである。
アインシュタインは「自分に分かるということが、私には分からないのだ」と言ったというが、そんなことに悩むべきでないと思う。
確かに、理屈ですっきり分からないと不安な面はあるだろう。いつか、それを失うかもしれないからだ。
しかし、それならそれで仕方がないとする態度が大切なのだと思う。

『正法眼蔵』は全巻はかなりのボリュームである。
非常に多くの現代語訳があり、全訳本だけでもいくつもある。
私が読んだのは、禅文化学院が編集し、現代語訳と各章ごとに簡単な解説をつけた抄本である。
抄本と言っても、1冊たっぷりである。
私は、この本で十分であると思う。
重要な部分を厳選してあるのだと思うし、『正法眼蔵』は各章で独立したものであり、全体を読む意味も大きいとは思うが、このような優れた書物は、1つの章が全体を表し、あらゆる真理を表しているのだとも言えると思うのだ。
例えば、般若心経は、短いながら、あらゆる膨大な経典の全ての内容を含むと空海が言ったのは、決して虚言ではないようなものだ。
それに、禅文化学院がつけた短い解説がとても良い。
多くの『正法眼蔵』の現代語訳著者の多くが、現代語訳と一緒に、解説と称して自分の考えを延々と書き綴っているが、正直、そんなものの多くはただの偏見でしかないだろう。

私は、『正法眼蔵』を初めて読んだ時の感動を覚えている。
本当に美しいと感じた。
先に進むのがもったいないと思ったものだった。
理屈の意味など詮索せず、そのまま読んでいれば良かったのだと思う。
しかし、読んでいるうちに、無理に理屈で理解しようとしてしまった。
すると、読んでいて楽しくなく、苦痛にすらなってくる。
何と言っても、理屈ではさっぱり分からないのだからだ。

『正法眼蔵』は、中国の『老子』に似たところもあると思う。
『老子』も、理屈ではさっぱり分からないが、恐ろしく美しい。
そして、『老子』は、さして長くない81の詩であり、私が読んだ『正法眼蔵』の抄本と同じような量である。
『老子』だって、著者とされる老子が、厳選した重要な言葉を尹喜(いんき)に口頭で言ったもので、尹喜はこれを憶えて、後で書いたと言われている。
昔の人は記憶力が優れていたが、尹喜はその中でも極めて優秀であっただけでなく、老子の言葉が心に刻み込まれ、一言一句違わずに書いたのだと私は思う。
『荘子』も大書だが、重要なエッセンスは内篇の1冊で収まる。
『荘子』は、『老子』に比べ、まだ平易に書かれているが、それでも、真髄となるとやはり分からない。
だが、『荘子』は、「美しい」と同時に、お伽噺のように「面白い」と感じさせるのは、荘子の善意と取っておきたい。
それは、『列子』では、さらにそうだと感じる。

だが、道元は、『正法眼蔵』のような素晴らしい大書を書いておきながら、結局は、「ただ座れ」と言った。
真理は、座れば分かるのだ。
親鸞も、『教行信証』という凄い書を書いているが、やはり、「ただ念仏しろ」であった。
念仏以外に何もする必要はないのだ。
初めに挙げた岡潔が、結局は、毎日念仏を称えることに励んでいたということを感慨深く感じるのである。









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