なまじ世間で成功すると、自分の価値感を過大視するようになる。
つまり、「自分の考えは正しい」と思ってしまう。
そうなった時はもう手遅れだ。
会社の社長であれば、経営がうまくいってれば、会社の中で自分が何を言っても賛成ばかりされ、誰も逆らってくれない。
それで、家に帰っても、自分の意見を家族に押し付ける。
妻が菩薩様のような人なら我慢もしてくれようが、可哀想なのは子供達だ。
子供の価値感が父親と同じであるはずがない。
その基準は全く異なる。
だから、父親のルールを押し付けられると、子供達にとって、それはただ、精神に狭い制限をかけられることになり、何もできなくなってしまう。
その子は、エネルギーの行き場を失くし、外部に対して暴力的になるか、自分に対して暴力的になるか、どちらも嫌なら、衝動を消すために無気力になる。
賢い子ほど、3つ目の無気力になるケースが多く、間違いなくニートになるだろう。
可能であれば、さっさと家を出るのが幸せである。
しかし、そんなエネルギーが残っていないことが多いのだ。
だが、その父親だって、誰もまともに相手になってくれない苦しさはあるのだろう。
だから、妻が相手になってあげれば良いのだが、普通は妻に愛想をつかされ、会社でも家庭でも孤独になる。

これは別に、社長などの指導者に限らない。
個人的好き嫌いはあって良い。
しかし、自分の好きなものに価値があるのだと愚かにも思っていても、決して言わないことだ。
これは結構厳しいことだ。
自分にとって、いかに釈迦やイエスが尊くても、誰にでもそうである訳ではない。
実際、歴史的、人類的に言えば、釈迦やイエスが害になった人の方がずっと多いのだ。
自分の好きなものが、他の人にも価値があるなどと、夢々思わないことだ。

モーツァルトにも、ダ・ヴィンチにも、ドストエフスキーにも、マルクスにも、普遍的価値なんて絶対に無い。
だいたい、人間が幸福に生きるのに、そんなものが必要な訳ではない。

ポップミュージックやロックが低俗で、クラシックが高尚な訳ではない。
どれも同じだ。
逆に、ロックに興味がないのに、子供や若者に合わせて、良いと思っているふりもしてはならない。
そんことをしても、どうせ子供達を見下しているのだ。
かといって、自分の趣味に閉じこもるのも惨めなものだ。

だが、自分が好きなものを、天から与えられたという理由だけで好きであれば、全てが好きになれる。
あるいは、自分が欲しいものが、天から与えられないという理由だけで無関心になれば、全てに無関心になれる。
いずれでも、あれは好きだが、これは嫌いという、苦しみを生み出す態度から逃れられる。
こうして、一切の囚われから離れれば、あなたは自由である。









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