「自分がある」、「自分がない」という言葉には、それぞれ、良い意味と悪い意味がある。

釈迦やイエス、ソクラテスや孔子、あるいは、師や親などの教えを学ぶことは、もちろん良いことだろう。
しかし、「彼らはこう言った」「こう本に書かれている」で終わり、自分でそれが本当に正しいかを確認しない者は、悪い意味で「自分がない」。
一方、教えを学んだなら、それを実践し、それが本当はどういう意味なのかを自分なりに理解し、確信に至った者は、良い意味で「自分がある」。
良い意味で「自分がある」者になるためには、失敗をしなければならない。
失敗の経験がない限り、人は何も分からない。

では、教義や理論を学び、それらを必要に応じて適用し、実践を積み、良い意味で「自分がある」者になったとする。
ここで、名誉や利益を求める者は、悪い意味で、「自分がある」。
だが、学び、経験を積んで賢くなったが、名誉や利益を求めず、自然に手に入るもので満足するなら、良い意味で「自分がない」。このような者は、「無私である」という言い方が相応しい。

まず、学び、実践し、そして、失敗し、経験を積んだ、世俗的に賢い自分を造る。
だが、名誉や利益を求めず、自然に入ってくるもので満足する。
これを無為と言い、そうある者が、尊い意味で自分をなくした無私の者であり、それが、理想的な人間である。

若い時に学ばない者は愚かであるが、学んだことを実践しなければ意味はない。
それどころか、実践しなければ、教えは腐敗してあなたを害する。
実践しないまま、更に学び、更に穢れ、亡者となる。
それが現代の多くの世間の人々の状態である。
その亡者が、名誉や利益を求めて、あがき、争っている。
それが現代の世の中である。

純粋な好奇心から学び、内なる純粋な衝動に従って行動し、失敗して経験を積み、賢くなる。
それで、ものが分かってきたと思っても、名誉や利益を求めず、自然に入ってくるもので満足する。
そのようであれば、鬼神も敬うだろう。









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