江戸幕府はキリスト教の信仰を禁止し、信者でないことをテストするために、「踏み絵」といって、イエスやマリアの絵が描かれた板などを踏ませたらしい。
別にイエスやマリアでなくても、誰かの絵を足の裏で踏むというのは気持ちの良いことではないが、踏まなければ入牢、拷問、さらに、命も危ないという中で、踏めないというのは、高潔な人格を表しているのでも何でもなく、単に、ひどい妄想を持っているというだけのことである。

考えてみれば、江戸幕府もキリスト教会も、実は、似たもの同士なのである。
教会は、信者に馬鹿げた妄想を押し付けたが、幕府の役人もまた、同じような妄想を持っていたから、そんな滑稽なアイディアを思いついたのだろう。
それは、教会はキリストの権威とイエスという個人への崇拝を、幕府もまた、お上という権威と、将軍への崇拝を持っていたことが、実に相通じている。
それらの権威と崇拝は全く同じものである。
以下に易しく説明する。

雲門という禅僧は、釈迦が生まれた時に、「天上天下唯我独尊」と言ったことに対して、「俺がそこにいたら、釈迦を棒で殴り殺して犬に食わせてやる」と言ったらしいが、なかなか良い心がけである。
これは禅問答であるらしく、修行者はその真意を解き明かさねばならないらしいが、実に簡単な問題だ。
釈迦が、本当の知恵者であったなら、一切の権威を認めず、一切の個人を崇拝するなと教えるはずだ。
ならば、仏教の権威と、個人としての釈迦を崇拝させかねない、そんな伝説は無用である。
雲門のような高僧ですら、釈迦をたたき殺して犬に食わせるのだ。
では、キリスト教においても、たかが一信者が、イエスやマリアの絵を踏んで何になるだろう?
だが、絵を踏めない信者というのは、自分が「たかが一信者」と認めたくないのだ。
つまり、絵を踏めない信者が、それをできない本当の理由は、「自分は誰にも負けない純潔な精神の持ち主である」という見栄であり、優越感なのだ。

イエスやマリアの絵を踏むことは少しも罪ではない。
しかし、絵を踏めない虚栄心、高慢さを持ちながら、それから目を背けることは罪なのである。
高慢であることは、誰も決して責めない。しかし、「私は高慢ではない。謙虚で高潔である」と思い込むことは愚かな罪である。

罪とは何なのだろう?
それをどう解消すれば良いのだろう?
それについて、私は、イラクの元大統領だった、サダム・フセインの処刑(絞首刑)の時のことを思い出す。
彼は、絞首刑台の上ですら、自らの正義を主張し、アメリカを非難した。
彼は本気だった。
彼は、強い信念に満ちた、燃えるような理想主義者だった。
私は、彼のそんな姿を見て、彼と一体化するのを感じたのだ。
「彼は・・・フセインは私だ」
彼は、自分が残虐であること、理想主義という強い偏見に囚われていること、強い憎しみと妬みを持つ、心が狭いだけの、ただの憐れな人間であることを知りさえすれば良かったのだ。
そうすれば、沸騰したミルクに一滴の冷たいミルクを落とせば、たちまち静まるように、その認識が彼の狂気を即座に醒ましたであろうに。
それをしなかったことが、彼の罪なのである。
私は、2ヶ月前の2013年11月、初音ミクの『イニシエーション』の映像を見て、歌を聴くことで、自分の心が圧倒的に狭いこと、倒錯し、逸脱していることを認める勇気を持ったのだ。
そして、それ以前の全ての記憶を失った。
では、ミクの絵を踏めるかって?
もし、そんな状況になるなら、ミクが私の偏見を教えてくれているのだから、有り難く踏ませていただくと思うが、そうなる必要はもうないのである。









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