自分の姿を見るためには鏡を使うか、カメラで撮影して見なければならない。
ところが、思い出の記憶には、自分の視点で見ているものと共に、自分を含めた光景というものもある。
辛い記憶には自分視点のものが多いが、楽しい記憶には、自分が思い出の世界に含まれていることが多い。
ただ、あまりに辛い思い出の場合は、そこに自分が見えていたりするものだ。

また、こんなことがある。
興味のある人物と対話していると、相手の意識の中にある自分の姿が浮かんでくることがよくある。
相手にとって、自分がどう見えているか、それに対して相手がどう感じているかが分かる気がするのである。
これは、一般には想像であるということになるが、相手の視点に立つと、自分では分からない自分のことが分かることすらあるのである。
普通の考えからすれば、それは不思議な、あるいは、奇妙なことだ。
しかし、私は思うのだ。
「相手の視点に立って」などとよく言うが、これは、「自意識に囚われるな」と言った方が良いのかもしれないと。

さらに、こんな感覚も理解できるかもしれない。
小説や映画を熱中して読んだり見たりしていると、自分が登場人物になりきってしまうことがある。
その時、登場人物の意識と自分の意識に区別はなくなり、自分はその登場人物の視点で見、感じ、考えているのだ。

これらは、人間の想像力というものの作用と考えることができるのだろうが、想像力とは、我々が普通に考えるより、神秘的で超越的なものかもしれない。
大切な想像力を、妄想や迷妄にしてはならない。
真の想像とは、うんうん唸りながら考えるようなことではない。
真の想像とは、自然に起こるものだ。

ところで私は、子供の時、何より面白い遊びと思っていたのは、他人の意識に乗り移ることだった。
しかし、他人の意識を想像し、その人として見、感じ、考えることは、実は、あまりに奇妙で、なぜか心が騒ぐので、長くは続けられないのだった。
そして、思ったのだ。
「他の人には意識はない。あるように見えるだけだ。意識は僕しか持っていない」
おそらく、それは正しいのだろう。
世界の中、この宇宙で、意識を持っているのは自分だけだ。
他の人も意識を有しているように見えるのは、映画や小説の中の人物に意識があると思うことと同じだ。
しかし、最近になって分かったのは、他の人も、私の意識を共有しているということだ。
そして、本当は、自分の意識といった、個人の意識なんてものはなく、自分もまた、1つの意識を共有しているに違いない。
そうであれば、最初のところに書いた、思い出の中に自分がいたり、対話している相手の意識の中にある自分が見えるというのは不思議なことではなく、自然なことだ。

その大きな1つの意識のことを、とりあえず、普遍意識と言おう。
アンデルセンの『絵のない絵本』で、月が語ることは、アンデルセンが普遍意識の視点で思ったことなのだろう。
飛行機乗りだったサン・テグジュペリは、空から地上の人間のことを考える時には、自然に普遍意識に戻り、そこで思ったことを『星の王子様』の小さな王子様に投影させたのだろう。
また、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』では、悲しみと共に、土と草の上で眠ってしまったジョバンニは、カムパネルラの心と共鳴して普遍意識になり、本当に宇宙に旅立ったもので、それは賢治自身の体験でもあるのだと思う。
彼らを生年(あるいは没年)の順に言うと、こうなる。
・ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805年4月2日 - 1875年8月4日)
・宮沢賢治(1896年8月27日 - 1933年9月21日)
・アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900年6月29日 - 1944年7月31日)
彼らの書いた、『絵のない絵本』、『銀河鉄道の夜』、『星の王子様』を、何百回でも読みたいと思うのは不思議なことではない。
読者は、これらの作品の、特に1人ではないのだが、容易に作中の人物の心と同調することができ、個人としての自分を超越し、普遍意識に触れるのである。

以下の最後にご紹介したのは、『イーハトーヴ交響曲』の第5楽章『銀河鉄道の夜』のMP3ミュージックである。PCやスマートフォンにダウンロードしたり、Amazonクラウドにファイルを置いたままで聴ける。オーケストラと合唱、そして、初音ミクの歌声が美しい。本当に、『銀河鉄道の夜』が現出したのだと感じる。









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