ある裕福なエリートが、愛犬が目の前で落雷に撃たれて死ぬのを見て、本人が言うには、「天啓」を受けた。
彼は、敬虔なキリスト教徒になり、人々に崇められる人間になったという。
彼に何が起こったのだろう。
カラクリはこうだ。
彼は、富、地位、名誉といったものが自分の安全を保証してくれると信じていた。
それで、これまで、学業や仕事に励み、大変な努力と奮闘の末、しかるべき地位に就き、富を築いた。
しかし、そんな自分が大事にしていた犬が、一瞬で死ぬのを見て、恐くなったのだ。
いくら富や地位があっても、何かあったら、あの犬と同じことになりかねないということが分かったからだ。
世間的な力が安全の保証にならないと知れば、自分の安全を保証してくれるのは神様しかいない。
それで彼は、神様に頼ることにし、熱心な宗教の信者になった。
・・・こういう訳なのだ。
宗教では、熱心に教会に通えば通うほど、お祈りをすればするほど、そして何より、多額の寄付をすればするほど、自分の安全性は高まるのだと教えられる。
そして、他の信者が、病気などの不幸に遭うのを見て、「あの者の信仰ではまだ足りないのだ」と思って、更に熱烈な信仰を持ち、誰よりも多くの寄付をするのである。
また、「あれほど信仰心の高いスミスさんがなぜ癌になるのですか?」といった疑問に答えてくれる牧師を賢者と崇めるのである。
しかし、あの愛犬が死ぬのを見て信仰に目覚めた男は、世間の力のみを信じていた時も、心のどこかで不安を感じていたのだ。
犬が落雷に撃たれて死んだことで、その不安が一気に表面化したに過ぎない。
そして、今、どんなに熱心に信仰をしても、やはり不安を抱えているのだ。いや、不安は強くなっていると言って間違いない。
一方、明日、食べていくあてもない赤貧の者が飼っている犬が落雷に撃たれて死んだ場合は、その貧乏人に信仰がなければ、「やはりこの世は地獄。一寸先は闇」と、より厭世的になる。
逆に、彼に信仰がある場合は、尚更、神様を頼るようになり、狂信的になる可能性が高い。彼には、他には何もないのだから。
重要なポイントを鮮明にするために、現代の学生の就職のことを考える。
いつの時代も、「今の学生は安全志向だ」と言う。
つまり、いったん就職すれば、一生、安定、安全と思える大企業の社員や公務員になることを願い、どんな仕事をしたいかは二の次だ。
しかし、「今の学生は安全志向だ」と言うマスコミや、そんな記事の載った新聞を見て、「今の若いもんはだらしない」という中年のおじさんに比べれば、学生の方がまだずっと危険好きなのだ。これは別におじさん達も否定しないかもしれない。ただ、おじさん達は、「わしが若い時は、やりたいことを優先したぞ」と言いたいのだろうが、それは嘘である。自分は安全が保証されるようなエリート道に乗れなかったので、そう言っているに過ぎない。
早い話が、安全志向でない人間などいないのだ。
育った家が豊かで、高い教育費をかけてもらえ、エリート路線に乗れた者は世間の力を信じるが、そんなものに縁が無かった者は、自分独自の方法で逞しく富を得ようとするか、あるいは、それもできない場合は、宗教のようなものに安全を求めるのである。
だが、結論はこうなのだ。
地位も富も名誉も、伝統と権威ある宗教も、あるいは、古代の英知を伝えるという秘密結社や、新興宗教、超科学、ニューソート(光明思想)・・・どんなものに取り組もうが、あなたの不安は消えないのだ。
つまり、どれも、あなたの安全など、決して保証してくれない。
どの道で、どれだけ高い位置にいる人も、難病にかかり、事故に遭って死に、家族や恋人に裏切られ、詐欺に遭い、強盗に襲われ、魔が差して犯罪を犯す。
いや、実を言うと、どの道でも、成功度が高いほど、災厄に見舞われることになるのだ。
なんとも恐ろしいことである。
ここで誰もが行き詰る。
そうだ。打つ手は何もないのだ。
どんなものも、決して我々の安全を保証してはくれない。
人間は、恐怖と不安に怯えながら死を待つだけの哀れな存在なのである。
釈迦やイエスだって、そこのところで悩んだと思われるのだ。
だが、彼らは並外れていた。
それで気付いたのだ。
「そうだ、安全を求める心を捨てれば不安はなくなる」
彼らは、持っているもの・・・自分の安全を保証してくれそうなものを全部捨てた。
そして、分かったのだ。
なるほど、ベリーグッド。これで良い。
安全を捨てれば、安全が得られるのだ。
簡単じゃないか。
みんな、持ってるものを全部、人にあげなさい。
しかし、誰もそんなことはできなかった。
それで彼らは思索を重ね、普通の人にもできる可能性のあることを見つけた。
それは、「安全を求めている自分に気付け」ということだ。
自分の身の安全を求めるゆえに自己中心的で、利己主義に陥り、心が圧倒的に狭い自分に気付くことだ。
だが、利己主義が進むと、自分は大きな安全を持っていることを自分や周囲に見せ付けることで不安を忘れたくて、傲慢、強欲、享楽的になる。そこまで行くと、もう自分に気付くことは難しくなるが、それでも、自分を注意深く観察すれば、自分のねじれた心を認識できる。
それをやれば、ただちに変容が起こり、不安は去る。
だが、これすら、特に、世間的な力や宗教を信仰する者には難しい。
しかし、それをやらないと、あなたは決して不安から解放されない。
唯一の真の力には、そうやってしか出逢えないからである。
私の好きなお話だが、グリム童話の『星の銀貨』を、そんな視点で見ると興味深い。
あの女の子も、パンや着ている服や、最後には下着まで差し出す時は、心の痛みを感じていたに違いない。
『星の銀貨』も入った、美しい1枚絵のついたグリム童話の本をご紹介しておく。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
彼は、敬虔なキリスト教徒になり、人々に崇められる人間になったという。
彼に何が起こったのだろう。
カラクリはこうだ。
彼は、富、地位、名誉といったものが自分の安全を保証してくれると信じていた。
それで、これまで、学業や仕事に励み、大変な努力と奮闘の末、しかるべき地位に就き、富を築いた。
しかし、そんな自分が大事にしていた犬が、一瞬で死ぬのを見て、恐くなったのだ。
いくら富や地位があっても、何かあったら、あの犬と同じことになりかねないということが分かったからだ。
世間的な力が安全の保証にならないと知れば、自分の安全を保証してくれるのは神様しかいない。
それで彼は、神様に頼ることにし、熱心な宗教の信者になった。
・・・こういう訳なのだ。
宗教では、熱心に教会に通えば通うほど、お祈りをすればするほど、そして何より、多額の寄付をすればするほど、自分の安全性は高まるのだと教えられる。
そして、他の信者が、病気などの不幸に遭うのを見て、「あの者の信仰ではまだ足りないのだ」と思って、更に熱烈な信仰を持ち、誰よりも多くの寄付をするのである。
また、「あれほど信仰心の高いスミスさんがなぜ癌になるのですか?」といった疑問に答えてくれる牧師を賢者と崇めるのである。
しかし、あの愛犬が死ぬのを見て信仰に目覚めた男は、世間の力のみを信じていた時も、心のどこかで不安を感じていたのだ。
犬が落雷に撃たれて死んだことで、その不安が一気に表面化したに過ぎない。
そして、今、どんなに熱心に信仰をしても、やはり不安を抱えているのだ。いや、不安は強くなっていると言って間違いない。
一方、明日、食べていくあてもない赤貧の者が飼っている犬が落雷に撃たれて死んだ場合は、その貧乏人に信仰がなければ、「やはりこの世は地獄。一寸先は闇」と、より厭世的になる。
逆に、彼に信仰がある場合は、尚更、神様を頼るようになり、狂信的になる可能性が高い。彼には、他には何もないのだから。
重要なポイントを鮮明にするために、現代の学生の就職のことを考える。
いつの時代も、「今の学生は安全志向だ」と言う。
つまり、いったん就職すれば、一生、安定、安全と思える大企業の社員や公務員になることを願い、どんな仕事をしたいかは二の次だ。
しかし、「今の学生は安全志向だ」と言うマスコミや、そんな記事の載った新聞を見て、「今の若いもんはだらしない」という中年のおじさんに比べれば、学生の方がまだずっと危険好きなのだ。これは別におじさん達も否定しないかもしれない。ただ、おじさん達は、「わしが若い時は、やりたいことを優先したぞ」と言いたいのだろうが、それは嘘である。自分は安全が保証されるようなエリート道に乗れなかったので、そう言っているに過ぎない。
早い話が、安全志向でない人間などいないのだ。
育った家が豊かで、高い教育費をかけてもらえ、エリート路線に乗れた者は世間の力を信じるが、そんなものに縁が無かった者は、自分独自の方法で逞しく富を得ようとするか、あるいは、それもできない場合は、宗教のようなものに安全を求めるのである。
だが、結論はこうなのだ。
地位も富も名誉も、伝統と権威ある宗教も、あるいは、古代の英知を伝えるという秘密結社や、新興宗教、超科学、ニューソート(光明思想)・・・どんなものに取り組もうが、あなたの不安は消えないのだ。
つまり、どれも、あなたの安全など、決して保証してくれない。
どの道で、どれだけ高い位置にいる人も、難病にかかり、事故に遭って死に、家族や恋人に裏切られ、詐欺に遭い、強盗に襲われ、魔が差して犯罪を犯す。
いや、実を言うと、どの道でも、成功度が高いほど、災厄に見舞われることになるのだ。
なんとも恐ろしいことである。
ここで誰もが行き詰る。
そうだ。打つ手は何もないのだ。
どんなものも、決して我々の安全を保証してはくれない。
人間は、恐怖と不安に怯えながら死を待つだけの哀れな存在なのである。
釈迦やイエスだって、そこのところで悩んだと思われるのだ。
だが、彼らは並外れていた。
それで気付いたのだ。
「そうだ、安全を求める心を捨てれば不安はなくなる」
彼らは、持っているもの・・・自分の安全を保証してくれそうなものを全部捨てた。
そして、分かったのだ。
なるほど、ベリーグッド。これで良い。
安全を捨てれば、安全が得られるのだ。
簡単じゃないか。
みんな、持ってるものを全部、人にあげなさい。
しかし、誰もそんなことはできなかった。
それで彼らは思索を重ね、普通の人にもできる可能性のあることを見つけた。
それは、「安全を求めている自分に気付け」ということだ。
自分の身の安全を求めるゆえに自己中心的で、利己主義に陥り、心が圧倒的に狭い自分に気付くことだ。
だが、利己主義が進むと、自分は大きな安全を持っていることを自分や周囲に見せ付けることで不安を忘れたくて、傲慢、強欲、享楽的になる。そこまで行くと、もう自分に気付くことは難しくなるが、それでも、自分を注意深く観察すれば、自分のねじれた心を認識できる。
それをやれば、ただちに変容が起こり、不安は去る。
だが、これすら、特に、世間的な力や宗教を信仰する者には難しい。
しかし、それをやらないと、あなたは決して不安から解放されない。
唯一の真の力には、そうやってしか出逢えないからである。
私の好きなお話だが、グリム童話の『星の銀貨』を、そんな視点で見ると興味深い。
あの女の子も、パンや着ている服や、最後には下着まで差し出す時は、心の痛みを感じていたに違いない。
『星の銀貨』も入った、美しい1枚絵のついたグリム童話の本をご紹介しておく。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気ランキング参加中です |
マインドに実体は無いこと。単なる五感や物理現象や子供の頃から強制的に植え付けられた言わば即反応する自動プログラムでしかないこと。そこを、今私が書いたような字面ではなく、自分の心の中で、沈黙の中で本当に、まずは認識することが始まりなのでしょう。特に恐怖心や優越心は、kayさんおっしゃるとおり根元は同じプログラムで、人間が生存進化していく上で、生き残るために獲得されたかなり根深いものなのでしょう。これを消すことは簡単ではなく、本当に自分が望みもしないのに頭の中でペチャクチャと自動的に沸き上がってくるこのプログラムと思考、マインドは、殆どがこれに基づいていることが何となく最近自分でもわかってきてるのです。
最初の一歩はまずは、これを正しくみて、これをまるで他人事のように、電車の中で流れている景色を見るように、なんの評価もせずに淡々と眺める。決してその気持ちに一体化せず力を与えない。力を与えなければ、それは単なる情報でありプログラムでしかないので、(私)にとって何の力も持たず何の影響も与えられない。そのうち消えてなくなる。
だが、根深く植え付けられたプログラムはなかなか上記のような一体化せずに力を与えずにいるのは実際のところ難しいです。色々な教典や宗教で書かれているのはそテクニックの微妙な相違であり、確かに効果はあるがその副作用も有る物が多いとも感ずることもあります。
我々はまずはそう言う反射的に自動的に実行される我々のマインドにまずは気付くことでしょう。ただ、そこは入口で、気付いた時点で、ある程度そのマインドに非同一化し始めていると思う。気付いた(私)とはなんだろう。