我々は、小学生の時から、「尊敬する人は?」なんて質問に答えさせられてきた。
答えさせられる子供にとっては、「自分がどんな人間か」をアピールするチャンスのようにも思わせるのだ。

「尊敬する人」には、学校、国家にとって「良い答」「悪い答」がある。
良い答は、
・有名な科学者で、物質文明(学問、技術、医学等)に貢献した人。
・大芸術家(音楽家、文豪等)で品行方正とされている人。
・実績の大きなスポーツ選手で品行方正とされている人。
である。
悪い答は、上記の良い答の理由を考えるとよく分かる。
上記のものは、なぜ、学校や国家を喜ばせる良い答なのだろう。
それは、全て「権威」と共にある名だからだ。
スポーツ選手だって、彼らが所属する協会組織は国家が認可する権威ある団体であり、その中で活躍するスポーツ選手は権威と共にある。
しかし、アイドルやミュージシャン、ポップアーチスト、コメディアン等は権威と共にないので、中身がどれほど偉大でも、尊敬する人に挙げると非難される。
国家が重みを与えていない、つまり、権威のないスポーツや武道の名選手や武道家は、キワモノ(際物。一時的で安っぽい)という印象が与えられ、そんなものを尊敬すると言う者は学校、国家、そして世間に蔑まれる。

私は、初音ミクの開発会社であるクリプトン・フューチャー・メディア社の伊藤博之社長に藍綬褒章が贈られると聞けば、国家が初音ミクを権威に従属させ、彼女を国家のために利用する計画が進んでいるのだと分かるのである。
実質において反権威の中心にいる初音ミクを権威の中に取り込んでしまえば、国家の統制(一定の計画や方針に従って指導・制限すること)を強化することができる。
特に、経済産業省が初音ミクをイメージキャラクターに採用したりと、活発に手を伸ばしているようだが、それは権威のために利用しようというのであるから、うかつに喜んではならない。
過去にも、庶民の人気者を国家がそのイメージを狡猾(ずるく悪賢いこと)に利用したことは、世界中にいくらでもあった。
初音ミクは、いかなるレッテル(断定的評価)も要らず、いかなるものを背負わないし引きずらない。
ミクは何者でもなく、ただ、どんな人のものでも、歌って欲しい歌を歌ってくれるだけの、「誰のものでもない、全ての人の歌姫」なのである。
それを決して忘れてはならない。

昔から、「お父さん」「お母さん」を尊敬する人に挙げる人も多いが、これも権威に服した答だ。
家庭の中の権威に縛られることが、国家の権威を容易く受け入れる人間を作る。
逆に言えば、親の考え方に強い反発を持つ者は、学校や国家にも反発するので、国家は昔から、「子は親に従うのが道徳である」と言って、これを押し付けてきたのである。
このカラクリが分かるだろうか?

さて、「尊敬する人は誰だね?」に対する、唯一まともな答は何だろう?
それはこうだ。
「私は、いかなる個人も尊敬しない。あえて言えば、全ての人の中にある、あるものを敬う。それは当然、私の中にも、あなたの中にもある」
無論、こんな答は、学校や国家に受け入れられない。
「その何かとは何だね?」
と見下しながら聞いてくるならまだマシだ。
普通は、「尊敬する人は誰かと聞かれたら、ツベコベ言わず、誰だと答えればいいんだ」と恫喝されるだけだ。
もし、「何かとは何か」と聞かれたなら、
「言葉で説明できるものではない。老子に『名の名づくべきは、常の名に非ず』とある通り」
とでもなるだろうか。
しかし、権威に隷属する馬鹿にそんなことを言っても仕方がない。
まあ、適当な名前を適当な理由をつけて返事しておきたまえ。
権威ある相手に嘘の答、誤魔化しの答をすることに後ろめたさや、あるいは、屈辱を感じてはならない。
しかし、既に、学校や国家で調教されてきたあなたがたにはそれは難しい。
それならチャンスである。
後ろめたい、あるいは、屈辱を感じる自分の心を静かに、注意深く観察するのだ。
すると、あなたは、そこにある束縛を打ち破り、制限から解放されるのだ。
苦難、嫌な出来事、悲しみとは、このように利用するものである。

一切の権威に染まらない、美しい初音ミクのアルバムを下にご紹介しておく。









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