昔、愛読していた本を開くと、こんなことが書いてあった。
「自分を愛しなさい。少なくとも好きになりなさい」
それは、『トーチェ氏の心の法則』という本だが、他にも、同じようなことを書いている本は、多いと思う。
自分を愛することができる人間なんて、まず、いないし、自分を好きだなんて言うのは、ナルシストの馬鹿に決まっている。
自分がちょっと美人だから、良い大学を出ているから、あるいは、地位が高いからといって自分が好きだというのは、自分ではなく、自分の排泄物やゴミ箱の中身が好きだというようなものである。
自分が好きだと思う者は、自分を憎んでいるのである。自分の排泄物やゴミしか好きになれない自分を、心の奥では嫌悪しているのだ。
イエスは「隣の人を愛しなさい」と言ったらしいが、これも、言葉のままに取ると、できもしない相談だ。
どこかの馬鹿高い健康食品を売って儲けている大金持ちの社長が、「会う人ごとに、『この人に良いことが雪崩のように起こりますように』と祈るのが、欲望を叶える秘訣じゃ」と言っているらしいが、そんなことをすれば、自己分裂を起こし、偽善者として多少成功する可能性があるかもしれないが、恐怖と自己不信を強化した哀れな人間になるしかないだろう。
そんなことをやっている人に聞きたいが、やってて苦しいだろう?
こう言うと、
「確かに苦しいが、それは、私の心がまだ汚れているからで、これを続けて心が浄化されれば楽しくなります」
と言うかもしれない。
しかし、続ければ、もっともっと辛くなるさ。
だって、自分が得をしたいために、「この人に良いことが・・・」なんて口先(心先?)で言うのは、偽善の極みじゃないのかね?
つまり、ますます心は汚れるのだよ。
なんで、こんな簡単なことが分からないのだろう?
イエスは、行いとして、ちっとは他人に親切にしなさいと言っただけだと思う。
「この人に良いことが雪崩のように・・・」なんて嘘を考えるのと、他人に道や席を譲るのと、どっちが善いことだろうか?

自分を愛したり、好きになったりという、不可能なことをしようとするのではなく、重要なことは、自分を理解することだ。
ところが、「自分を理解する」と言えば、「自分を甘やかす」と思い違いする者が多いに違いない。
世間での、「この子を理解してあげなさい」という言い方には、「この子に優しくしなさいい。そのためには・・・まあ、わがままを許してやることも良いんじゃないかね?」といった奇妙な意味合いがある。
だから、自分を理解するというと、「私は今のままでいいんだあ」という、変なことを考えるのかもしれない。
だが、自分を理解するとは、自分が自己中心主義者で、快楽を渇望する欲張りの卑怯者だという事実から目を逸らさず、しっかり見るということだ。
しかし、自分を罰しろとか卑下しろとも言っていない。
時々、このブログで、私が自分のことを「ろくでなく」「卑怯者」と書くと、「そんなに自分を責めないで下さい」といったコメントを下さる方がいるが、私は単に事実を述べているだけであって、責めてなどいない。
自分で自分を責めるのは、刑務所の中で、婦女暴行犯が窃盗犯を責めるようなものである。
それが滑稽であることくらは、私にだって分かるが、それすら分からない人が実に多いのだ。
当記事のタイトル『婦女暴行犯、窃盗犯を批判する。「こいつは人間のクズだ」』を見て、「そりゃ愉快だ」と上から目線で言う者が少なくないと思うが、これは、我々自身のことである。あなたも私も例外ではない。

我々は、1日中、欲望を起こし、誰かを嫌悪し、他人を見下し、自分の都合の良いように事実を捻じ曲げようとしている。
それに気付いていることが、自分を理解することだ。
それを頭で分析したり、是非を考えるのが、上で述べた、婦女暴行犯が窃盗犯を分析し、是非を唱えることだ。
早い話が、誰かを嫌悪するあなたと、それを責めているあなたは同じものなのだ。
我々は、傲慢にも、他人を批評したり、あげつらう癖がついており、自分を理解しろと言われたら、自分に対して論評を始めるのである。
そうではなく、ただ気付いていることだ。
逃げず、目を逸らさず、ただし、批判せず、卑下せずに「直視」することである。
心は激しく揺れるかもしれない。胸は痛むだろう。
しかし、放っておき、観察するのだ。
その時、何が起こるかは、自分で確かめることである。









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