人が眠っている様子を見る機会は、昔の時代に比べて少なくなっていると思う。
人が本当に無防備な状態で寝ている姿はなかなか面白いし、何かに気付くことも多いのに残念なことである。
電車の中で本当に熟睡してイビキを立てている者も稀に見るかもしれないが、それはむしろあまり見たくないというだけでなく、そんな者は細胞が緊張しており、自分の家で寝ている時とは違うのである。

岡本太郎の『今日の芸術』に書かれているが、西洋で女性の裸体画が多いのは、西洋の家では、部屋に鍵をかけてしまえば、侵入される恐れがほとんどないので、冷房がなかった時代では、女性でも、部屋に鍵をかけて裸になっていたからだという。
一方、日本の、ふすま1枚隔てた部屋ではそんなことはできないから、日本でヌード画は不自然であり、文化風習の異なる西洋の絵の真似をするなという主張であったと思う。
フランスに長く留学し、フランスの大学で民俗学や哲学を学び、そこにいた多くの外国人と交流し、そして、あらゆる国の美女、美少女達と同棲していた岡本太郎が言うのだから、説得力もあるというものである。
それで言えば、確かに、西洋の絵には、ヌード画だけでなく、人が眠っている絵にも印象的なものが多い。
フランスのモローの『夜(ナイト)』は、夜の女神自身が眠っているという、考えてみればおかしなものだが、それで通ってしまうし、文句なく神秘的な素晴らしい絵である。
モローに限らず、西洋の絵画では、目を伏せた人物は、眠っているように感じるものが多いと思う。

眠ってる人の姿を見るのは良いことであり、重要なことに気付かされる。
それは何かというと、自我、あるいは、心が身体と共にない人間の姿である。
そこに、神秘性や崇高さがある。
心を持たない人間には、言い様のない美しさがある。
ある意味、眠っている姿は人間の理想である。
だから、人が無防備に眠っている姿は、見ている者に安らぎを与える。
年を取るにつれて、心が身体にからみつく度合いが大きくなり、眠っていてすら、心と関わりを持つようになってしまう。
そんな寝顔は美しくないのだが、そんな人でも、疲れ果てて、心を完全に放棄して眠っている時、「つきものが取れた」ように、安らかな顔になっている。
我々は、美しい寝顔をしていること、そして、日中でも、そのような顔をすることが、 願うべき理想であり、それを、天使や神になった者と言うのである。

どこかの民族には、人は眠ると、目がその人から離れて空に浮かび、星になるというお話があるようだ。
お伽噺のようなものだが、どこか「本気で」心惹かれるところがあるのではないだろうか?
眠っている人の魂は、星のように崇高で、まるで神々のように、下界を静かに見下ろしているのだから。
リルケの『夢』第7夜(青空文庫で無料で読める)には、「都会では、人々は心配が多くて眠れなかったり、夜更かしをするので星が少ない」と書かれているが、それを笑う気にはなれない。
夜空の星を見上げていると、星達が話しかけてくるようだったり、その慈愛に満ちた眼差しに見つめられているように感じるかもしれない。
そして、心が洗われ、生まれ変わり、不思議な活力を得る。
崇高な人物の眼差しは、まさにそんな星のようである。
心を星の世界に解き放って眠っている者、あるいは、つとめを終えて永久の眠りについた者を見て、我々は人としての真の有り様を知り、自ら星になろうと思うのである。









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