私は、小学校時代に、2人の際立った優秀な男子生徒を見た。
共に成績優秀、スポーツ万能で、今の私よりはるかに人格者だった。
「同じ人間であるのに、なぜこんなにも違うのだろう?」
と私は真剣に悩んだものだった。
ところが、知るともなく知ったのだが、一人は家が大きなお寺で、もう一人は立派な神社の家の子だった。そして、その当時から、彼らは毎日、何らかの宗教的な儀式を行っており、お寺の家の子については、彼が僧衣を着た姿を、直接には見ていないが、写真で見たことがあった。その姿が何だかとてもサマになっていた印象がある。
また、やはり小学生の時だが、眩しいほどの美少女である上に、何をやっても優秀な女の子が同じクラスにいた。当時から、多少の罪悪感は感じていたが、クラスの中の別の「低レベル」な女の子と比べ、「同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろう?」と、こちらに関しては、本当に不思議に思ったものだった。そして、これによって、私は、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」という言葉は大嘘で(福沢諭吉の真意を誤解していたのも確かだが)、「人間は絶対に平等ではない」と強く思ったものだった。
ところが、ある時、その素晴らしい美少女の家に行く機会があったのだが、そこで不思議な光景を見た。家というよりは、彼女の「居場所」といった感じで、彼女は、大勢の小さな子供達と一緒にいた(彼女自身、それほど大きくはなかったが)。当時は意味が分からなかったが、彼女は、何かのボランティアをしていたのだろう。彼女の年でそんなことをしていたのは、やはり、彼女の家の宗教と関わりのあることに違いないと思う。

実業界やスポーツ界のトップの人たちが、実は何らかの宗教の熱心な信者であることが分かるということがある。
宮沢賢治も熱心な日蓮宗の信者であったが、それは、彼が18歳の時に日蓮宗の聖典である法華経を読み、大変に感動したせいだと言われている。賢治は大変な秀才だった上、当時のことだから、漢文の素養も十分にあったのだと思うが、それにしても、法華経の良さが、僅か18歳でそれほどすぐに分かるのは凄いと思う。私などは今だにさっぱり分からない。
しかし、それは、賢治が、家の宗教である浄土真宗に強い反発を持っていたこともあると思うのだ。そして、それは、浄土真宗への反発というより、家や親への反発であったのだと思う。
それで、表面上は、浄土真宗と大きく異なる日蓮宗への肩入れにつながったということもあるのではないかなあと思う。まあ、これは単なる想像である。
しかも賢治は、『銀河鉄道の夜』では、キリスト教的な雰囲気を実に美しく描き、『風の又三郎』は、どこか神道的な雰囲気があるように感じるのである。つまり、賢治は、必ずしも、日蓮宗のみを重視していたのではないと思うのだ。
ところで、賢治は、若い頃から病弱で、精神的にも不安定なところがあったと思う。彼は、極めて優秀な成績(主席)で農学校(今の岩手大学農学部)に入学し、やはり優等で卒業して、すぐに助教授の申し出があったが、それを断ったり、金持ちでありながら、女性関係の浮いた話1つもなく、生涯独身であったというのも、どこかに弱さを感じるのである。
そして、賢治は、80年前の9月21日に37歳の若さで亡くなっている。
私は、この賢治の80回目の命日には、大阪で、世界的音楽家の冨田勲さんが宮沢賢治の世界を描いた『イーハトーヴ交響曲』の公演を鑑賞した。冨田さんが、宮沢賢治の世界を歌えるのは初音ミクしかおらず、彼が60年もやりたいと思い続けて実現しなかったこの交響曲が、初音ミクのおかげで出来たというのも、賢治のどこか現実性の希薄な精神と関係があると思う。そんな彼の作品は、人間の歌手では歌うことができず、自我を持たず、この世では仮初めの存在でしかない初音ミクにしか歌えないというのは、賢治とミクを愛する私にはよく分かるように思うのだ。
宮沢賢治は、おそらく、現実的には強い人間ではなく、そして、苦悩の多い人間で、あまり幸福な生涯とは言えなかったのではないかと思うのである。

個人的信条と宗教が一致する人間はやはり強いのであると思う。
アメリカで、ある高名な精神科学者が、「幸福な人間」のモデルを作った時、宗教に関しては「ユダヤ教の信者」としたのが興味深い。それはやはり、個人的信念と宗教が一致しやすいことを示すのだと思う。
賢治のように、家の宗教と、自分が信仰する宗教が異なり、しかも、家の宗教に強い反発を持つというのは、人間にとって不幸なことであると思う。
少なくとも、家の宗教は、熱心に信仰しないまでも、否定したり、嫌ったりしない方が良いだろう。そして、それは可能だ。どんな宗教も、本質的には優れたものであるからだ。
特に深い信仰を持つ気はなくても、心の支えになる信仰があるのは良いことであるが、日本人の場合、神道が潜在的な信仰であり、空気のような存在であることに気が付くと良いだろうと思う。そして、本当の神道は、どんな宗派の仏教でも、あるいは、どんな宗派のキリスト教でも受け入れ、うまく調和するのである。
縁があって、しかも、良いと思うなら、ホツマツタヱを読んでも良いが、やはり古事記はその奥に素晴らしい輝きを宿している。合気道の開祖である植芝盛平は、古事記を日本の宝典と言ったが、その通りであると思う。そして、神道や古事記は狂信するようなものではない。それは、雨土のように自然に在るもので、ただ楽しく読めば、精神に作用し、力になるだろうと思う。









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