「余り物には福がある」(「残り物に福がある」ともいう)という言葉がある。
子供の時、この言葉を聞き、特に意味を教えてもらわなかったので、この言葉のまま受け取ったが、本当にその通りだと何度も思ったものだ。
この言葉も、世間的には、「人が取り残したものや最後に残ったものの中には、意外によいものがある」という意味らしいが、私が子供の時に、「言葉通りに受け取った」意味とは、次のようなものだ。

誰も欲しがらず、余ったものの中にこそ、本当に良い物がある

つまり、割合にとか、そこそこに良いのではなく、最高があるということなのである。
『サウンド・オブ・ミュージック』という有名なミュージカル映画で、マリアが修道院を出て、トラップ大佐邸に行き、初めてトラップ大佐に会った時、トラップ大佐はマリアの服をしげしげと見て、「ひどい服だ」と言う。
マリアは、「誰も欲しがらなかったんです」と言う。
おそらく、寄付された服を貧しい人々に取らせた後、誰も取らなかった服をマリアがもらったということなのだろう。
それで、一番ひどい服が当たったということになるのだろうが、マリアは、大佐に指摘されるまでは、特に気にはしていないようだった。
私は、子供の時にこの映画を見たが、別にマリアの服が悪いとはちっとも思わなかったので、どうも不思議な場面であった。

この部分の話は創作なのかもしれないが(全体的には事実に基いた話なのらしい)、実際のマリアも、世間的には損を取る・・・余り物を得ることがよくあったのだと思う。それは彼女にとって、最高の影響を及ぼしたのだ。

余り物とは何だろう?
多くの物の中から好きなものを選ぶ時、人は、自分が一番良いものを取ろうとする。
それは自我の働きである。
だが、自我は表面的なことしか見ることができず、中身は悪くても、包装がきれいなものを選ぶのだ。
自我の判断は全て間違っている。
ならば、人々に好きなものを先に取らせるということは、悪いものを選んで除いてもらうということで、最良のものを残してもらうということだ。
もし、1つも残らないとしたら、全て、得るべきでない悪いものだったということだ。

幼稚園の時、感動的なものを見たことがある(このブログや以前のブログで何度か書いたが)。
幼稚園で、何かの行事の後、子供達にお菓子が入った袋が配られた。
みんな、我先に、お菓子を取りに行った。
ところが、どういうわけか、一人分、足りなかった。
それで、一人の、えらく可愛い女の子がお菓子の袋を得られなかった。
しかし、彼女は別に困った様子でなかったのが印象的だった。
すると、一人の別の女の子が、自分のお菓子を半分、その子にあげていた。
それも、袋の中の、一番良いお菓子と思えたチョコレートも渡していたのをよく覚えている。
その時、百分の一秒ほどだったが、私は目には見えないものを見た。5つか6つの時には、そんなことがよくある。
お菓子を取りそこなった子の正体は天使だった。そして、彼女は姉の天使を呼んで事情を伝え(多分、テレパシーで)、姉の驚くほど美しい天使は、妹にお菓子をくれた女の子を一生守ることにしたのだ。
妹の天使も、醜い自我を育てずに済む子を一人得た。
余り物には福があり、自分を余り物とする者にも最高の福があるのだ。
「余り物には福がある」。この言葉こそ、座右の銘に相応しい。









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