アダムとイヴは、神様に禁じられていたのに、知恵の木の実を食べたので、罰として、イヴは苦しんで産むことを、アダムは食べるために額に汗して働かなければならなくなった。

しかし、女性の全てが苦しんで産む訳ではない。
「心身医学の父」と言われたドイツ人医師ゲオルク・グロデックは、女性が子供を産む時の顔は、歓喜のために恍惚としているのだと述べている。
また、全ての男性が、苦しんで仕事をしている訳でもない。
むしろ、仕事ができないことの方が辛いという男は少なくはない。

では、神がアダムとイヴに与えた罰とは何なのだろう?

アダムとイヴが知恵の木の実を食べて得た知恵とは、「自分が行為者である」と思い込む、偽りの知恵であると思う。
罰を受ける前も後も、アダムは働いていたのだし、イヴが子供を産む方法も、何も変わってはいない。
しかし、罰を受ける前は、アダムは、働いても、自分が働いているとは思わなかったし、イヴは、子供を産んだとしても、自分が産んだとは思わなかったのだ。
せいぜいが、アダムは、働かされていると思い、イヴは産まされたと思うことだろう。
つまり、「する」のではなく、「させられる」だけなのである。
そして、罰を受ける前の、誤った知恵を得る前のアダムとイヴの認識こそが正しいのだ。

釈迦が、「行為はあっても行為者はいない」と言ったのはそんな意味と思う。
我が国でも、学問のない農民だったが、念仏を唱えて悟りを開いた因幡の源左(いなばのげんざ)も、いかなることも、「している」のではなく、「させていただいている」のだといつも言っていたらしい。彼は、念仏を唱えることで、阿弥陀如来によって、罪(原罪)から解放されたのだ。

インドの至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、神クリシュナは、こう言う。
「賢い人は、仕事をしても、実際は自分は何もしていないことを知っている」
では、それが分かるためにはどうすれば良いのか?
クリシュナは、「仕事の成果を求めずに働け」、「仕事の成果を全て我に捧げよ」、「全て我に任せてしまえ」と言った。
法然や親鸞も、自力を完全に捨て、阿弥陀如来に全て任せよと言い、それを阿弥陀如来に伝えるため、また、阿弥陀如来に完全にすがることを自分に分からせるために「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよと教えたのだ。
念仏という、具体的で、極めて優しい方法を作ってくれた阿弥陀如来は、実に深い慈悲に満ちていたのである。
クリシュナから直接教えを受けながら、アルジュナは、このことを理解するために、『バガヴァッド・ギーラー』の全18章を要したのである。
ただ、アルジュナは、念仏のようなことを教えられたとしても、それに従うことができなかったかもしれない。
『バガヴァッド・ギーター』や『聖書』を読むと念仏の貴さが分かり、また逆に、念仏を唱えていると、これらの書が理解できるようになると思う。
ただ、私は、法然や親鸞が教えてくれたように、ただ念仏のみを頼みとしようと思う。









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