ポップソングやアニメソング等で、「幸せを掴むには諦めないことが大事」と訴えるものをいくつか知っているが、私が知っている以外にも、そんな歌がまだあると思う。
一方、深遠な人生の知恵を得た者は、「諦めが肝心」、「諦めれば幸せになれる」と言う者もいる。
どちらが正しいのかというと、はぐらかす訳でも逃げる訳でもないが、両方正しい。

イエスが、「山に海に入れと命じ、その通りになると信じて疑わないならそうなる」と言ったが、そんなこと叶うはずがないじゃないかと思うかもしれない。
ところが、ロバート・シュラーという牧師が著書にこう書いていた。
「イエスは、どのくらいの時間がかかるかは言ってないのだよ」
私は、衝撃を感じたものだ。
同じことが、中国の『列子』にもある。ここでは、山を移すのに、何世代もかけたことが書かれている。

つまり、こうだ。
諦めず、無限の時間をかければ何でもできる。
あるいは、短い時間で達成することを諦めれば、いつか叶う。
つまり、諦めることも、諦めないことも、同時に正しく、同時に必要なのだ。

NHKの大河ドラマで、源義経が若い頃、「人々が、衣食足り、家族が一緒に安心して暮らせる世の中にしたい」と言うのをよく覚えてるが、もし、義経がそんなことを本当に考えていたのなら、900年かかったが、今日の日本ではほぼ達成されている。
願いとは叶うものだ。

確かに、叶わない夢なんてない。
なかなか結婚できなくて悩んでいるとしたら、50年以内にできるとか、今世で無理なら、来世で結婚できると考えれば、可能性はぐっと大きくなる。
しかし、実際は、そんな願いを叶えるのに1分もかからない。
世界のどこかで、1分以内に、数多くのカップルが結婚しているに違いない。
真理を言うなら、この世界に他人なんてものはおらず、全て自分である。
昔、私は、ある素晴らしい美人を、「こんなのを嫁にできたらなあ」とちょっと思ったことがある。それからしばらくしたら、彼女は誰かと結婚したのだが、私は妙に嬉しかった。彼女の結婚相手の嬉しさがよく分かるのであり、結局、この世での彼女の結婚相手の男も私も何の違いもないということなのである。
火星に行きたいなら、もう近い未来に誰かが行くのである。
オリンピックで金メダルがとりたいなら、確実に取れる。次のオリンピックで、軽く百人以上の金メダリストが出るのだからだ。
宇宙人の宇宙船に乗りたいのなら、もう誰かが乗っているかもしれない。もし、地球でそんなことがないとしても、遠い遠い星で、誰かが乗っているはずだ。宇宙人すら他人ではなく、自分なのである。

夢の中で、超一流のスポーツマンになったり、アイドル歌手、あるいは、大統領になったことがあるかもしれない。
私もあるのだが、その時、どこか違和感を感じたことがある。
ところが、「本物の」そんな人達にも、自分のそういった世間的立場には違和感があるのだ。
我々は昨日、一国の王様だったのが、今日は社会の底辺で生きる貧しい者だったりする。王様だった時の記憶はほとんどなく、ずっと前から貧乏人だったと「思い込んでいる」だけなのだ。
魂は宇宙大なのに、自我という小さなフォーカスポイントを自分だと思っているので、そんなことが起こるのだ。
自我を捨てれば、どんな願いも叶うし、叶っているし、叶えていたのだ。
だから、自我を持たない者は、どんな願いも持たない。

あるひどく貧しい聖者に誰かが尋ねた。
「あなたほどの賢者が、この状況を変えようと思わないのですか?」
賢者はおかしくて笑いながら答えた。
「どの状況かね?」









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