東大教授で、国産OS「TRON」の開発者で名高い計算機科学者である坂村健さんの『不完全な時代 - 科学と感情の間で』を電子書籍で読んだ。大変に面白く勉強になった。
坂村さんは、特にこれからの世の中では、我々は自分で判断をする責任が求められ、それが可能な科学的知識を持たなければならないと述べておられた。無論、科学的知識と共に科学的思考法を含めてのことだろう。
そして、古典も大切であるが、優先順位をつければ科学の方が大切であり、学校の学習時間も限度があるので、古典の方をある程度捨てるのは仕方がないということを、根拠と論理をもって整然と説いておられた。

しかし、あらゆることを、科学的知識で判断できるようになるには、無限の科学的知識が必要になってしまう。坂村さんすら分からないことだって、いくらでもあるはずだ。それを補おうとするなら、「ある程度古典を切り捨てる」どころか、「古典は一切不要」になる。いや、それでも全然足りないのだ。坂村さんはそんなことは意図していないつもりかもしれないが、そう結論せざるを得ないのだ。
坂村さんは、原発事故や情報事故等のようなことで、「科学的知識がない私に分かるように説明しろ」と言う文化人の傲慢さを戒め、科学的知識の必要性を主張しておられた。しかし、この文化人の先生の問題点は、科学的知識が無いことではなく、傲慢なことだ。ここをすり替えちゃいけないんだ。
坂村さんは、悪意はないのだろうが、彼の論は、すり替えが多いように感じるのだ。しかし、頭の良い人が、自分の主張を正当化させようとすると、いつもそうなるものだ。

科学的知識や科学的思考より大切なのは自然な思考や想像力であり、さらに大切なことが謙虚さだ。
科学的知識を得て、「俺はものを知っている」と思うなら愚かになる。
学べば学ぶほどに、ソクラテスのように、「私は何も知らない」と悟れば良いのだが、そこに到達するのは、良くて死の直前かもしれない。
植物は、必要な方に根を伸ばし、自分のいるところの地形や重力の作用などの条件を最大に利用するように成長することに驚かされるが、植物は科学的知識があるから、そんなことができるのではない。そこをよく考えなければならない。

オカルト批判で有名な大槻教授は、カルトに騙されないためにも科学的知識を持たなければならないと言うのだろうが、科学的知識が無くて騙されるより、科学的知識があるから騙される人の方が多いかもしれない。
大槻教授自身が、自分の知らないことに関しては、随分おかしなことを言うことで知られてしまっている。きっと、彼を騙すのは、その方面に強い人なら簡単で、実際に大槻教授は騙されることが多いのだと思う。
どんな大学者だって、人間が知っていることなんて、たかが知れているのだ。

私は、科学的知識どころか、文字も読めない妙好人(念仏で悟りを開いた、社会的には下級市民)を騙したことがある。
結果としての良い経験とは言えるが、いつまでも痛い傷跡だ。
私は彼を簡単に騙せたのであるが、実際は、私が騙したのではなく、彼は騙されてくれたのだ。妙好人とは、そんなものである。
騙すというのは、騙される側に欲望があって初めて成り立つことだ。
しかし、妙好人というのは、過ぎた欲がないので、騙されたところで被害はほとんどない。
「あの山を買えば大儲けできますよ」と騙しても、妙好人は騙されはするが、山は買わない。大儲けに興味が無いからだ。
では、妙好人は、いわゆる、オレオレ詐欺に騙されるかというと、これが騙されない。
彼に、「300万円出さないと、あなたの息子さんが刑務所に入れられるので、すぐ振り込まれたし」と騙そうとすると、彼は言うのだ。
「金が欲しいならやるよ。だけど、その前に話を聞きな」
妙好人は、IQが異常に高い天才や科学のエリートよりずっと賢いのだ。それは驚くべきほどでり、時に恐ろしいほどだ。
それは、彼らが、自然に学び、想像力があり、謙虚だからだ。
彼らは、原発には賛成しないが、宇宙ロケットは、目的によっては賛成する。宇宙ロケットなら何でも賛成、何でも反対というのではない。
そんな彼らは、いつも熱心に念仏を唱えている。理屈は分からないが、念仏はもっと高度な科学なのである。

坂村さんは、「科学も古典もいずれも大切だが、優先すべきは科学」と言う。
しかし、本当は、どちらも大切であると同時に、どちらも大切でない。
これが分からないことが人類の欠点であり、人類の悲惨の原因だ。
科学は幻想である。では科学を学ぶ必要はないのかというと、幻想である科学を学ぶ必要があるのだ。
冷静と情熱のどちらが大切であるかというと、どちらも大切であるのだ。
老子も孔子も荘子も易経も、古典であると同時に、より高度な科学なのだ。
それが分かるためには、想像力と、何より謙虚さが必要である。
念仏の行者(その本物の行者が妙好人だ)は、自分には何の力もないことを知っているので謙虚である。謙虚であろうと務めているのではなく、存在自体が謙虚なのだ。
彼らは学問は無いかもしれない。しかし、本当に大切なことを何でも知っていて、賢く、情熱があり、限りなく優しい。子は親の鏡と言う。彼らは、親である阿弥陀如来の姿を映しているのである。









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