聞いた話によると、有名な童話作家のアンデルセンは、若い時に、好きな女性に想いを伝えようとして、自伝を書いて送ったという。
1000パーセント失敗するやり方だ。憐れなほど馬鹿な、若き日のアンデルセンであった。
うまく口説きたいなら、全く逆のことをしなければならない。
まあ、女性に自伝を書かせるのも大変だから、彼女の話を「黙って」聴いてあげることだ。
ついでに言っておくと、自伝を書きたがるような女性を好きになるのは、おかしな人か聖人かのどちらかだろうが、聖人は滅多にいないので、それはきっと危ない人である。例えば、女子校生を売り飛ばそうという意図で彼女達と親しくなるために、そんな手を使うヤクザもよくいたものである。
よくいるような気もするが、主に若い男性が特定の女性を好ましく思った理由が、「自分の話を楽しそうに聞いてくれる」と言うなら、自分達が恋人同士だと思っているのは男性の方だけではないかと思う。
早い話が、誰も、他人のことなどに興味はないのだ。

昔、ネット上で付き合いのあった、ある物書きの男性は、自分のHPに、自分のプロフィールをこまごまと、そして、長々と書いていたが、やはり、性格も破綻し、やがて、病気で死んでしまった。
『我が闘争』というタイトルで知られる自分の話を延々と書いて出版したアドルフ・ヒトラーは、弱くて心の病んだ人間であった。
強い人、高い境地にある人は自伝なんか決して書かない。岡田虎二郎は死ぬ前に、書いたものを全部燃やしてしまったという。それを惜しむ人は多いが、本当に優れた人とはそんなものだ。
だが、素晴らしい自伝というのも確かにある。
それは、自伝というより、愚かな自分の姿を晒すことで、誰かの役に立つことを意図したり、自分に起こったことを通して神を賛美したくて書いたものなのだ。
史上最高のプロレスラー、ルー・テーズも80歳になって自伝を書いている。だが、彼の意図は、まず、懺悔ということもあったかもしれないと感じるのだ。彼は、自分が高校を卒業していることになっていることについて、本当は、高校に入学もしていないことを告白して詫びている。高校に入学しなかったのは、家が貧しくて、中学卒業と同時に家業の靴屋の見習いになったからだった。つまり、入学しなかったのではなく、できなかったのだ。しかし、彼はレスリングを愛していたので、高校のレスリング部の練習にだけは参加させてもらっていたらしい。また、二十歳くらいの時、試合で膝の半月板を割ってしまい、長い間休養を余儀なくされた際は、自分に教養がないことを自覚していた彼は、図書館に通って読書に励んだことを明かしている。この話には、自慢のようなものは全くなく、むしろ、彼の引け目や、本当は高校くらいは行きたかったという彼の気持ちを感じるのである。そして、彼は、自分の多少の名声により、誤解されることが多かった、自分の尊敬する師達の名誉を高めたかったという意図も感じるのである。

昔、アインシュタインの『自伝ノート』という本を読んだことがあるが、いわゆる自伝であることを期待して本を開いた私は面喰った。彼も、これは自伝というより、「自伝のようなもの」という書き方をしていたと思うが、実際は学習ノートとか研究雑記のようなものだったと思う。多少、学校教育などについて、自分の思うところを述べていたように思うが、自分のことについて書いているのは、その程度だったように思う。

アンデルセンも、後に自伝『私の物語』を書いているが、これは素晴らしい書だ。苦難続きの人生であったが、彼は、自分は幸運で幸福であったと述べている。彼は、アンデルセンという人物を通して、運命の不思議を語り、親切で愛するべき人達のことを人々に知らしめ、そして、神を賛美したのである。
ルドルフ・シュタイナーは、良い教師は空気のようなものだと言ったが、一般にも優れた人物のことを尊敬を込めて「先生」というように、良い教師は高い精神性を持った人間のことで、そんな者は空気のように存在を感じさせないが、同時に、空気のようにとても重要なのである。そして、空気が自伝を書いたりはしない。書くべきものが何もないのだ。
これと正反対の人間は、例えば、自分が好きな野球チームを子供に応援させて喜ぶ父親だ。時々テレビで見ることもあるが、小さな自分の子供に、好きな野球チームのユニフォームを着せ、応援グッズを持たせて、野球場やテレビの前で応援させ、酒を飲みながら悦に入っている。そんな子供の大半は心が歪み、自分や他人を傷付けるような人間になることがよくある。小さな自分の子供が、自分の好きな野球チームを応援するのを、満足そうに見る父親を知っていたが、その子供は自殺した。父親思いの素直な良い子だった。

自分の過去や自分の一切を忘れてしまうのだ。捨ててしまうのだ。自分の心も壁のシミか何かだと思えば良い。
実際、自分というものは、過去の様々な因縁が現れただけのものだ。それに執着して掴んでしまうと、さらに醜い業を作るだけだ。
念仏を唱え、全ての業を・・・それはつまり、現実や自分の心として現れているものだが、それらを全て、阿弥陀如来に委ねて消してもらうことである。
そして、空気のように透明になっていくことで自由になれるのである。









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