高い仕事の能力を持った人に、「どうすれば、あなたのように仕事ができるようになれるのか?」と聞いても、まともな答が得られることは、ほとんどない。
なぜなら、その本当の答は、世間ではタブーだからだ。
だが、ある程度の年齢になれば、世間に対して慎重な配慮をしながら、こう言うかもしれない。

「こういう言い方をしてはいけないのだけれど、結局は生まれつきです」
「生まれ持っての能力です。でも、それを言っては終わりですから(ここだけの話ですよ)」
「こう言ってはまずいけど、結局は最初から持っている才能です」

しかし、そう言っても少しもまずくないし、いけないことなどないのだ。
なぜって、その答は全く正しいし、他に答は無いからだ。
そして、「そう言ったら終わり」であることも確かだ。つまり、他に何も言うことはないからだ。
ビル・ゲイツは、プログラマーの能力について、「知能指数のようなもの」と言ったことがあるように思うが、これも、つまるところ、生まれつきということだろう。
才能の無い者を訓練しても、ほとんど効果はない。
先日も書いたが、『トヨタの片付け』というベストセラー書があり、確かに素晴らしいことが書いてあるが、「この本のようにやれ」と言っても、できない者は決してできないのだ。

ただ、私は、世の中には、アインシュタイン以上の天才なんて、実は、ザラにいるのではないかと思っている。
浅田真央やイチローのような、スポーツの素質のある者も、本当は沢山いるかもしれないし、多分、いると思う。
ジョージ・フォアマンという、「怪物」と言われた、元プロボクシング世界ヘビー級王者は、現役のチャンピオンだった時にこう言ったそうだ。
「私より強い若者なんて、世の中にいくらでもいる」

すると、
「そんな才能を埋もれさせてはならない」
「才能を見つけてあげよう」
なんてことを言う者がいるのだ。
しかし、埋もれさせたっていいのだ。
見つけてあげられるに越したことはないかもしれないが、本当は、見つける方法なんて誰にも分からないのだ。
「こうやれば見つかる」と言っても、それはきっと、馬鹿げた方法だ。
才能を発揮できるかどうかは運命の問題だ。
イエスが、「神の意思でなくては何も起こらない」と言った通りである。

そして、本当のことを言うと、たとえ、スポーツや芸術や科学の才能を埋もれさせ、一生発揮できずに終るとしても、それは不幸でも何でもない。
ニュートンは、「私の才能は、神から預かっただけ」と言った。
そして、ニュートンは、自分は浜辺で遊ぶ子供で、時々、きれいな貝殻を拾い上げたに過ぎず、真理の大海は目の前に横たわったまま、全く手をつけることができなかったと言っている。
神は時々、特定の人間に、何かの才能を与え、その力を発揮するようにさせることがある。
すると、才能を与えられた人間は、それは自分の力であり、自分が素晴らしいことをしていると思い込むことが多い。
しかし、そうやって、自我を持ったまま発揮する能力は些細なつまらないものだ。ニュートンが言ったように、ちょっと綺麗な貝殻を拾い上げる程度のことに過ぎない。
しかし、自力をつまらないものだと見限って捨て、神の力を頼れば、真理の大海に飛び込み、それと一体化することができるだろう。
荘子も言ったのだ。無能に徹し、作為を捨てろと。そうすれば、永遠の道(タオ)と1つになれるのだと。
だが、作為を捨てることのできる人間は極めて少なく、道と一体化できる者はほとんどいない。
しかし、法然や親鸞は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えればそれができるという、具体的な易しい方法を教えたので、素直にそれに従った多くの人達が悟りを開いた。その多くは学問の無い人達で、文字の読めない人もいた。彼らは妙好人と呼ばれ、かなり多くが知られている。
むしろ才能のある者、才能を伸ばした者は、世間という牢獄から抜け出すことができず、苦しく惨めなまま生涯を終える可能性が高い。しかし、念仏を唱える者は、地上の喧騒を尻目に、高く飛ぶのである。









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