聖書の詩篇91で、神は、「彼は私を愛して離れないので、私は彼を護る」と言う。
誰かがイエスに、「一番大事な律法は何ですか?」と尋ねると、イエスは、「神を愛すること」と言う。
旧約聖書のヨブ記には、「神と親しみ(和らぎ)、平和でいれば幸福になれる」と書かれている。
では、どうすれば、神を愛することになるのだろう?
それは、ヨブ記にあるように、神と親しむことであるが、どうすれば、神と親しむことができるのだろう?
それは、神の近くにいることである。では、どうすれば、神の近くにいられるだろう?

それは、名を呼ぶことではないだろうか?
人間同士だって、愛するなら名を呼ぶのだ。
憎んでいたって名を呼ぶ。まして、愛していれば名を呼ぶ。憎しみと愛は近いものだ。
ラマナ・マハルシは、「教え」を意味する言葉「ウパデーシャ」の、ウパは「近くに」、デーシャは「場所」または「席」という意味であると言った。
「ウパデーシャ」とは、「場所あるいは席の近くにある」という意味だ。
遠くにいると思っていた神は、実は近くにあり、しかも、自分自身である。

常に神の近くにいることだ。それが愛するということだ。
そして、神の近くにいるには、その名を呼ぶことだ。
法然は、このことについて、実に端的に述べている。
阿弥陀如来の名を呼べば、阿弥陀如来はそれを聞く。
阿弥陀如来を拝礼すれば、阿弥陀如来はそれを見る。
阿弥陀如来を心に思えば、阿弥陀如来も思ってくれる。
これらによって、阿弥陀如来と近しい間柄になる。
これを、神仏を愛すると言うのである。
この中で、最も重要なことが、仏や神の名を呼ぶことである。
阿弥陀如来に対しては、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることである。
そうすれば、聖書も浄土三部経も、神や仏が、その者を護ることを保証している。

仮に名前が分からなくても、愛する人を「愛する人」と呼ぶ。それが名前である。
幼い子供は、夜空の星を親しみを込めて、「お星様」と呼ぶ。それが名前である。
ペットに名前をつけていなくても、「猫ちゃん」とか、「可愛い子」とか、幼い子供なら「にゃんにゃん」とか「わんわん」とか言う。それが名前である。
普通、親を名では呼ばないが、「お父様」、「母さん」とか言う。それが名前であり、愛していれば、多くその名を呼ぶが、愛していなければ名を呼ばない。
人は、星にも名をつける。
「ケンタウルスよ、露を降らせ」と言うと、ケンタウルスとの距離が近くなり、恵みを降らせてくれる。
神であれば、「わが主」、「父なる神」、「全能なる神」と言えば、それが神の名になる。
まして、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、限りない恵みが与えられる。なぜなら、阿弥陀如来が、名を呼びやすいようにと、自らをそう名乗ったのだからだ。
今とは違い、元々、阿弥陀くじというのは、真ん中から放射線状に線が引かれていた。その形は、光を発する存在である。阿弥陀如来とは、別名を無量光仏、あるいは、無量寿仏と言い、意味は、無限の光を持つ仏、無限の命を持つ仏である。
庶民のための絵に描かれたようなものではないかもしれないが、阿弥陀如来は実在する。その名を呼べばかならず護られるのであるが、その護り方は、人間の想像もつかない壮大さ、豪華さ、贅沢さで、この上もない絢爛さである。過保護にも程があると言うしかないが、仏とは人の親であり、限りない慈悲心を持つ親であるのだからである。
その途方もなく豊かで強力な親の近くにいようとしない愚かさは、イエスが放蕩息子の話で、法華経では、貧乏暮らしで心根まで貧しくなった息子の話で喩えられている。
神や仏の名を呼べば、神や仏の近くにいて、完璧な守護と無限の富と共にある。









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