アメリカのマーブル教会の牧師だったノーマン.V.ピールや、日本の大実業家である斎藤一人さんが、会う人ごとに「祈りの砲撃」を浴びせることを薦めていることをご存知の方も多いかもしれない。つまり、誰に会っても、「この人に良いことが雪崩のように押し寄せますように」と祈るのである。そうすれば、自分にどんどん恵みがやって来るというものである。
彼らほどの人達が言うのだから、本当なのだろう。ただし、彼らや、彼らのように、優れた精神を持った人であればだと思う。
私のように、人嫌いだという心の歪んだ者がそれをやれば、心はさらに捻じ曲がり、無理にやると分裂症に陥るだろう。
「そんなことではいけない」と言われても、自分ではどうにもならない。
「たゆまずやっていれば、やがて心が澄んで、気持ちよくできるようになる」と言われても、その前に精力が枯渇して死んでしまうだろう。
優れた人には、蔑み疎まれるべき劣った人間のことは分からないのかもしれないと思う。

そして、こんなことを思い出す。
アメリカの伝説的な男性歌手であったサミー・デイヴィスJr.の60歳の誕生日を祝い、多くのトップミュージシャン達が集まって歌やダンスを披露したことがあった。
その中で、当時まだ20代だったスーパースター、マイケル・ジャクソンが登場し、デイヴィスjr.への讃歌を情熱的に歌い上げた。これだけでも十分だった。
しかし、最後、マイケルは股間に手をやり、あの、「シー!」と声を発するパフォーマンスで決めた。
その時、デイヴィスjr.は涙をとめどなく流し、顔をくしゃくしゃにして感激していたのだ。
マイケルは、別の時に、ある有名な女性アナウンサーに、「PTAから、あのポースは下品だって言われているのですが、それに関してどう思いますか?」と質問されたことがあったが、マイケルはこんな答えをしたと思う。
「僕は歌っている時は楽器になるんだ。どこに手がいってるかなんて分からないよ」
特に、あのポーズをする時のマイケルは、エクスタシー(忘我)の状態であり、無になりきっているのだろう。
つまり、あれは、マイケルが自分でやっているんじゃない。芸術の神にそれをさせられているのだ。
デイヴィスjr.は、マイケルが自分を全部捧げることで、デイヴィスjr.に神の祝福がもたらされたことが分かるので、かくも感激したのであると思う。

マイケルは、言葉で「デイヴィスに神の祝福を!」と言うより、はるかに強烈な眩しい神の祝福の法雨を降らせたのだ。
それは、マイケルが自分でやったのではない。マイケルは、神の道具になりきり、神がデイヴィスjrを祝福するに任せたのだ。

これは、「南無阿弥陀仏」の念仏と全く同じなのである。それは、親鸞がはっきり述べていると思う。
念仏は自分で唱えるのではない。阿弥陀如来に唱えさせていただくものなのだ。
自分が、誰かに、阿弥陀如来の恵みを与えるのではない。人間にそんな力はない。
だから、阿弥陀如来に完全にお任せして、誰かに恵みを与えていただくのだ。

私は、嫌いな人に対し、「あなたに良いことが雪崩のように押し寄せますように」などといった偽善的なことを考えると、たちまち疲れきり、沈鬱ですさんだ気分にすらなる。
しかし、唱えさせていただいているという気持ちで、念仏を唱えるなら、どんな人のためであっても、全く心に陰りはない。
最近は、私はよく、「南無阿弥陀仏」の念仏を取り上げるが、無論、「南無観世音菩薩」でも、「南無弥勒菩薩」、あるいは、「南無弥勒仏」でも良いのである。

念仏を唱えれば、仏、菩薩、神々、竜の王とその配下の竜、さらには、魔王すら念仏者を護るのである。
まして、念仏を唱えさせていただいていると思っている者、そのような気持ちで、他者のために念仏を唱える者が護られないはずがないのである。









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