倶胝(ぐてい)というお坊様は、臨終の際、「我は、師の天竜先生から頂いた一本指の禅を使い切ることはできなかった」と言って、安らかに息を引き取った。
一本指の禅とは何かというと、この倶胝和尚、何を聞かれても、ただ人差し指を一本立てるだけであった。
だが、寺の小坊主がこれを真似した時は、その小坊主の人差し指を一本、切り落とした(あくまで禅のお話である)。
泣き叫んで飛び出していく小坊主を呼び止めた倶胝は、指を一本立てて見せた。その時、小坊主は大悟した。大悟とは、悟りを開くことではないが、迷いを脱して、何か大切なことを魂で理解したということだ。

この禅語の意味をあれこれ言うセンセイや評論家が多いだろう。
老子は言った。「知る者は語らず」と。
私は、語りはしないが、一本指の禅を手に入れた。
これがあれば、いかなる困難もたちどころに去り、悪霊は恐れて近付かず、神々は護り、生涯、傷付くことはない。
だから、ただ使えば良いのである。
もちろん、あなたにも手に入れられる。

人差し指というのは、武道では、師匠預けの指といって、決して使ってはならない指だ。
刀を持つ時も、人差し指は開いている。
武道だけではない。野球のバッティングでも、ゴルフでも、人差し指に力が入っていては、高度な技を発揮できない。
楽器演奏では、一応は人差し指を使わざるを得ないが、いかにうまく力を抜くかが大切なのだ。
ピアノでも、ヴァイオリンでも、最後まで迷うのは人差し指の使い方だ。人差し指を「使わずに使う」ことができるようになった時、本当に楽器をマスターしたと言えるのだ。

あなたも、困った時には、すっと人差し指を立ててみると良い。
うまく立てられたら、問題はもう解決している。
一本指の禅でなくても、「南無阿弥陀仏」の念仏でも、「アジマリカン」の呪文でも、ラマナ・マハルシの「我は誰か?」でも、あるいは、五井昌久さんの世界平和の祈りでも良い。
だが、どれも、所詮、練習しなければ使えないのだ。だから、一生一つというのが良いに違いない。
少し練習すれば、割に早く使えるようになる。
すっと立てた指に、自分を入れてしまうのだ。「アジマリカン」と唱えて、自己を忘れるのだ。
いや、ただ無心に指を立て、呪文を唱えれば、自然にそうなる。
だから、実践の中で、しっかり練習して欲しい。
そうしたら、死ぬ時に、「ああ、面白かった」と思うであろう。
ところで、無門は、この一本指について、味なことを言っている。「神は山を引き裂いた」と。あるいは、「天竜、倶胝、小坊主と一緒にお前も一串に刺し貫かれる」と。
その通りだ。だが、練習すれば分かることだ。









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