病気について書こうとすると、「これは個人の考え方です」「1つの事例です(普遍的なこととは言っていません)」といったことを書かないと、「後でまずいことになる」から注意しないといけないものらしい。
しかし、「私なら」、仮に書き手に悪意があったとしても、一切責める気はない。また、悪意があったかどうかを知ろうとも思わない。
もし、そんなことで文句を言うなら、全てのテレビCMや、その他の広告について非難しなければならないが、私はそのようなものは初めから信用してしない。
無業という昔の僧は、毎朝、自分に向かって、
「おい、主人公」
と呼びかけ、自分で、
「はい」
と返事をし、それから、
「しっかり目を覚ましておれ」
と言って、また、自分で、
「はい」
と返事をした、そしてさらに、
「人に騙されるでないぞ」
と、自分に命じ、また、
「はい」
と返事をした。
だが、私は騙されることはある。よくあると言うべきかもしれない。
しかし、好きで騙されるのだ。人間は、生きている限り騙されるのであり、ある意味、騙されるために生きているのである。
ただ、自分の個人的な欲望のために騙されることが無ければ良いのであり、無業の言った、「人に騙されるな」は、このことを言っているのだと思う。

ちょっと前置きが長くなったが、病気治しの話をしよう。
私は、末期癌の人間と何人も関わった。
何人かは奇跡的に治った。
末期の胃癌で、余命1ヶ月と言われていた男性の甥っ子さんに、政木和三さんが発明した神経波磁力線発生器(現在は製造・販売されていない)を紹介すると、その甥っ子さんはごく普通のサラリーマンで全く金持ちではないのだが、10万円もするその装置を躊躇せずに購入して叔父さんに渡した。子供の頃から可愛がってくれた叔父さんに、最後には何でもしてやりたいと思ったようだ。そして、叔父さんもその気持ちを受け入れ、この装置を使ったところ、10日で、癌は全て消えてしまい、退院した。
しかし、その後、再発し、結局、数ヵ月後に亡くなられた。
また、知り合いの会社経営者の奥さんが、やはり末期癌だったが、私の勧めで、EMというものを飲むと、やはり治ってしまった。彼は、EM販売店の社長の勧めにより、飲料用のEM-XではなくEM1号というものを奥さんの飲ませたらしい。EM1号は、今述べたように飲料用ではなく、土壌改良用の微生物が入った液体であるが、EM発明者が自分が飲んでいることを表明し、また、EMで病気治療に成果を上げていることを公表している医師が著書で、「安全性に問題なし」と書いておられたと思う。
だが、いったんは治っても、やはり、再発を繰り返すのである。

病気は、表面的にはいったん治っても、病気の原因といったものがあって、それがある限り、何度でも再発するのかもしれない。
私は、幼い頃からの皮膚病で、ずっと辛い思いをしいているのだが、治す気はもう無い。これはおそらく、業病とでもいうべきもので、私という存在に含まれているのであって、治すことは不可能か、治すべきでないものだろうと思う。
しかし、原因が浅い場合には、その原因そのものを取り除くことができるのかもしれない。
黒住宗忠という江戸末期の神道家は、ハンセン氏病に罹った武士に、毎日百回、「ありがたい」と唱えなさいと指示した。しかし、その武士が言われた通りにやってみても治らない。すると、宗忠は、「では1日千回言いなさい」と言い、そうしてみたが、やはり治らない。すると、「では1万回」となり、武士がそれに従ったところ、一週間後に吐血して意識を失ったが、目が醒めると治ってしまっていた。
「ありがたい」といいう言葉を唱えることの効用と共に、普通なら、特に身分もプライドも高い武士なら、「1万回」と言われたら、激怒してもおかしくないところを素直に従うことで、病気の原因となっているものを破壊してしまったのかもしれない。

ベルナデッタ・スビルーという、14歳の時に聖母マリアに逢ったという女性は、敬虔なキリスト教徒になり、修道女になった。彼女は、「自分は何もできない役立たずです」という、立派な信仰者の立場で、献身的な奉仕をしたが、病気に苦しみ続けた。彼女は、「この世では幸せにしてあげられないが、あの世では幸せにしてあげよう」という神の声を聞いたという。そして35歳で亡くなったが、彼女の遺体は医学的処置をしないにも関わらず腐敗せずにあるという。
病気に霊的な原因があるとしても、それは人間に理解できるようなものとは限らず、いわば、宇宙全体がその原因であるのかもしれない。
ならば、病気やその原因についてあれこれ考えても仕方がなく、ただ受け入れるしかない。
不幸な人生や、様々な辛い状況、生活の苦労といったものも、ある種の病気なのであろうし、その原因は分からず、それをどうにかすることもできない。
ただ、起こることを起こるままにまかせ、あるものをあるように受け入れるだけである。
だが、荘子は、そのような者を、神々ですら、地に伏して崇めると言う。
つまり、それが人間のできる至高のことなのであろう。そして、それが正しいことを、直感が教えるのである。それは、誰でもそうなのだろうと思う。









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