中学生の男の子が急に勉強を頑張り出したとしたら、まあ、大抵、隣の席が好きな女の子になったとか、そんな事情だろう。
あるいは、とても口惜しい目に遭って、誰かを見返すために、苦しい訓練に耐えるようになることもある。
これらの感情は、適切に発揮されると素晴らしいのだが、過剰になると歪みが生じ、悲惨を産む。
ここらはとても難しい。
屈辱を与えられた相手を憎んだとしても、冷静に考えると相手の方がずっと実力があるという場合、一念発起して厳しい修行に耐えて、実力を得、今度は相手を負かして心の満足を得たいと思うのは、一概に悪いとは言えないかもしれない。しかし、相手への憎しみや妬みがあまりに大きいと、周りが見えなくなって道を誤ることが往々にしてある。一番悪いのが、勝ちを焦るあまり、手段を選ばなくなることだ。例えば、スポーツ選手が筋力増強剤を使ったりである。

また、強制的に執着を離れざるをえない状況になってしまうこともある。
アメリカの国務長官を務めたことがあるコンドリーザ・ライスは、幼い頃から極めて優秀な人間で、学問だけでなく、スポーツも万能で、フィギュア・スケートの名選手だったこともある。彼女はいつも猛烈に努力し、極めて高いレベルに達することができた。
ピアニストを目指したこともあり、彼女は本気だった。しかし、彼女が大学生の時、ある11歳の天才少年に会ってしまう。自分が1年かかってやっとできることを1日でやってしまう彼の能力を見て、あまりの才能の違いを思い知らされ、彼女はピアニストを諦める。彼女だって、素晴らしい交響楽団のピアニストになれたかもしれないが、彼女は世界一でないと満足でなかったのだろう。
このように、どうにもならない現実を知って、執着を離れることもあるのだろう。

だが、実際はこうなのだ。
ライス元国務長官のようなハイレベルなものでなくても、ものごとが成るか成らないかは、人間がどうにかできるものではない。
日本の元号が昭和から平成に変わった時、「平和に成ると考えてはいけない。平和を成すと考えよ」と、一見正しいことを言った人がいた。しかし、彼はすぐに落ちぶれてしまった。
人間に平和を成すことなどできない。平和を成すのは神である。ただ我々は、神が平和をもたらしてくれるような想いを持たねばならないだけなのだ。
ケネディ大統領は、大統領就任演説の中で、「国家が自分に何をしてくれるかを考えるな。自分が国家に何ができるかを考えて欲しい」という有名な言葉を述べたが、前半は正しいが、後半は悲惨な間違いだ。自分に何ができるかなど、分かるはずがない。
イエスは言ったではないか?
「私の想いではなく、父(神)の想いが成りますように」
そして、成るのはいつも必ず神の想いであり、自分の想いなど、何の力もないのだ。

屈辱を感じることで心が燃えて、苦しい修行に耐えて力を付ける。これも神の計らいだ。
可愛い女の子にいいところを見せようと努力して、結果、何か素晴らしい能力を得るかもしれないが、これも神の思し召しだ。
つまり、我々は、あの孫悟空の寓話のように、仏の手の平の上で走り回っているだけなのだ。
孫悟空のこのお話は誰でも知っているのに、自分が孫悟空のようなものだと気付く者は滅多にいない。
相変わらず、自分の人生を自分の思うようにしようという傲慢さを持ち続けて苦しみ続けるのである。

自分は世界や人生に何の影響も与えることができないことを悟り、謙虚に神を敬い崇める時、何かが起こる。
神があなたの中に入ってくるようにも感じ、神があなたを迎えるようにも感じる。
スーフィー(イスラム神秘主義)だったか、こんな言葉がある。
「彼は神を探しに行って、神になって帰ってきた」
神を探しに行くことだ。
それは、神の名をいつも心に想うことである。それが探すということだ。
私がお薦めしていることの1つが、広隆寺の美しい弥勒菩薩像の写真を見てその感じをよく覚え、それを想いながら、「南無弥勒仏」と唱えることだ。
あの弥勒菩薩像は、元々金箔が貼られていたが、今はそれは全て剥がれ落ち、赤松の素材が現れている。
それは、『法華経』にあるように、かつては「求名」と呼ばれたほどの見栄っ張りの弥勒が、教えを学ぶ内に、虚栄心という金箔が剥がれ落ち、本来の素朴な美しさが現れた姿である。そんなことを想い、あの真に美しい姿を見ると良いだろう。









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