引きこもり気質の人がなぜ働きたくないかというと、会社が学校のスポーツ部みたいなものだと思っているからではないかと思う。
スポーツ部の中で、部員が何もせずにいることは難しい。
レギュラーでなくても、トレーニングメニューが決められていたり、特に下級生なら、玉拾い、荷物運び、掃除、その他の雑用をやらされるだろう。そして、そんな下働きを一生懸命やることが美徳のように言われたりするのだ。
そういったことを一生懸命やるのが好きな人は良いが、嫌な人も多いはずだ。
「好きか嫌いの問題じゃない」と言う人もいるだろうが、絶対に好きか嫌いの問題だ。
一方、文化部は、いろいろな部もあるだろうが、何もせずに過ごすことができるような所もあると思う。
私も、中学の初めは、親の要求もあってスポーツ部に入ったが、夏休みまで毎日のようにある練習に参加する気などさらさらなく、辞めてしまい、文化部を転々としたが、どこでも何もやらずに過ごした。
文化部の中では、一生懸命、忙しく働く人もいるが、そうでない人もいると思う。
私は確信するが、自分は何もせず、他人がやっているのを眺めるのも立派な部活である。
特に日本人は、ここらの感覚に欠けるのだ。
「部活で一生懸命やるのが、社会で立派にやっていく基礎になる」とか言った者もいたような気もする。それは、悪い意味でその通りなのであるが、それについては以下に追々述べていく。
私は、ニートで数年過ごした後、初めてやった仕事がセールスマンだったが、これはスポーツ部みたいなもので、強制的に働かされる。何と言っても、1人1人、売上げ成績がはっきり出るのだから、売らないわけにはいかなし、「今月売上げゼロ」なんて者は人間としての権利を認められないのだ。実際に、売上げ成績の悪いセールスマンが、罰として、奥さんの前で上司にプロレスのサソリ固めをかけられて窒息死したという話があったし、私のいたところでも、先輩は本当の話だと主張したが、女性セールスマンが男性上司にホテルに連れ込まれて「教育」されることを拒めなかったという。売上げが全てのセールスの世界では、パワハラ、セクハラなんて言葉が通用しないこともあるのだと思う。
私は、そんな仕事に嫌気が差して、事務職に変わった。
事務職が何もしなくていいと言ったら怒られるだろうし、実際、そうでない職場が多いかもしれないが、私は、中学の部活同様、何もしなかった。
私は、敬愛する、あの大俳優、丹波哲郎さんの真似をしたのだ。
丹波さんは、サラリーマンになっても、全く仕事をせず、挙句、出社したらすぐに遊びに出かけ、オフィスにすらいなかった。上司は、「雑誌を読んでてもいいから、席にはいてくれ」と頼んだが、丹波さんは、「どうせ何もできないし、できるようになる気もないのだから、いなくていいじゃないか」という雄大な理由で従わなかった。
丹波さんは、それ以前に、軍隊でも何もしなかった。自分と同じ新米の兵隊達が、上官や先輩の使い走りや洗濯を一生懸命していても、丹波さんは決してそんなことはしなかった。
そして、真面目で優秀な兵隊達は戦地に送られ、ことごとに戦死したが、無能で何もできない丹波さんは、豚の餌やりみたいなことをするところに回され、そんな空襲の恐れもない平和なところでのんびり過ごしたようだ。
外務省に高給で通訳に雇われた時も、本当は英語なんてできなかった丹波さんは逃げ回って仕事をしなかったが、外務省の地下バーで知り合ったアメリカの軍人と仲良くなって、酒を飲んだりバクチをやって楽しんだようだ。
そして、丹波さんは俳優になっても、すぐには仕事がなかったが、おつかいに行かされた映画会社かどこかで、ふんぞりかえり、事務の女の子に、ラーメンの出前を要求し、そのデカい態度に偉い人だと勘違いでもされたか、丹波さんはのうのうとタダでラーメンを食べて帰っていったようだ。
仕事を一生懸命やらずに怠けていると、後でツケが回ってきたり、バチが当るとか言う者も少なくない気がするが、丹波さんは、そんなことは全くなく、それどころか、我が国屈指の名優になっただけでなく、007シリーズのヒット作『007は二度死ぬ』で、ショーン・コネリーに次ぐ役を演じて国際的な俳優にもなった。
無論、私も、バチが当ることはなく、その後もますます良い思いをするばかりだった。
ただ、丹波さんの真似をする胆力が無くなると、やや不遇になることもあった。
丹波さんや私のやり方は不道徳で、良識に悖(もと)り(道理にそむくこと)、仏教の因果律でも、キリスト教の「悪い種は悪い実を結ぶ」の教えでも、必ず悪い結果になるはずだが、そんなことはなかった。
だが、私は、釈迦やイエスの教え自体は信奉しいている。
しかし、彼らの教えは、世間で言うような、狭量で堅苦しいものではないのだ。
表向きは、真面目に一生懸命に、立派な仕事をしている者が、ロクな目に遭っていないことはザラにある。
そんな人達は、心が狭く、一面的な正しさにこだわり、それに従わない者を責めたり、蔑んだりすることが多いのではないだろうか?
一方、丹波さんは、いつも明るく、ものにこだわらずに悠然とし、見栄を張ったり、人に嫌がらせをして困らせるようなことは決してしなかった。
また、誰かに何か嫌なことをされてもすぐに忘れ、根にもったり、恨むようなことがなかったのだ。
丹波さんは、子供の頃から、ものにこだわらない性質を持っいて、それが幸運の原因だったと言われていた。
そんな丹波さんに倣い、なるべくものにこだわらず、できるだけ鷹揚に振舞うことで、私のような小人物でも、やはりツキに恵まれてばかりだったのだ。
小さな道徳などより、そういったことの方がずっと大切であることは間違いがないと断言できる。
尚、後に霊界研究をするようになった丹波さんは、ものにこだわらない人間がなぜ運が良いのかと言うと、そんな人間ほど守護霊が護り易いからだと述べている。
高名な宗教家の五井昌久さんの本を読むと、そうであることが更に分かるのである。
そして、五井さんは、常に、守護霊、守護神に感謝すれば、ますます加護を得られると言ったが、ご利益目当てで、下心のあるわざとらしい感謝をするよりは、丹波さんが言われたように、せめて、朝起きた時と、夜寝る前に、守護霊に挨拶することだ。
最初は、「おはようございます」、「おやすみなさい」で良いと思う。
そして、自然に感謝の念が起こってくれば、「守護霊様、守護神様、おはようございます。今日もよろしくお願いします」、「守護霊様、守護神様、今日も護っていただき、ありがとうございました」と言うようになるだろう。
そして、ますます、広い、こだわりのない心を持つようになれば、幸福になることは間違いがないだろう。
また、五井さんの『世界平和の祈り』を唱えるなら、自然にこだわりのない大きな心になれるのではないかと思う。
丹波哲郎さんの座右の銘が、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』であったことに、私は深い感慨を覚える。
私には、『雨ニモマケズ』の深い意味が分からなかった。
しかし、昨年(2012年)11月23日に、東京オペラシティ・コンサートホールで行われた、冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』の、冨田さんが素晴らしい曲をつけた『雨ニモマケズ』の荘厳な合唱を百回以上聴いて、私は、これは、法華経を深く信奉した宮沢賢治が、仏神の心を表したものであると感じた。
私は、『イーハトーヴ交響曲』で、初音ミクが歌う宮沢賢治の世界に心酔し、今更ながら、すっかり宮沢賢治のファンになり、熱心に作品を読み、ますます『雨ニモマケズ』の素晴らしさが分かるようになったと思う。
宮沢賢治、五井昌久、丹波哲郎、冨田勲、そして、初音ミクが我が国や、我々を救う救世主であると思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
スポーツ部の中で、部員が何もせずにいることは難しい。
レギュラーでなくても、トレーニングメニューが決められていたり、特に下級生なら、玉拾い、荷物運び、掃除、その他の雑用をやらされるだろう。そして、そんな下働きを一生懸命やることが美徳のように言われたりするのだ。
そういったことを一生懸命やるのが好きな人は良いが、嫌な人も多いはずだ。
「好きか嫌いの問題じゃない」と言う人もいるだろうが、絶対に好きか嫌いの問題だ。
一方、文化部は、いろいろな部もあるだろうが、何もせずに過ごすことができるような所もあると思う。
私も、中学の初めは、親の要求もあってスポーツ部に入ったが、夏休みまで毎日のようにある練習に参加する気などさらさらなく、辞めてしまい、文化部を転々としたが、どこでも何もやらずに過ごした。
文化部の中では、一生懸命、忙しく働く人もいるが、そうでない人もいると思う。
私は確信するが、自分は何もせず、他人がやっているのを眺めるのも立派な部活である。
特に日本人は、ここらの感覚に欠けるのだ。
「部活で一生懸命やるのが、社会で立派にやっていく基礎になる」とか言った者もいたような気もする。それは、悪い意味でその通りなのであるが、それについては以下に追々述べていく。
私は、ニートで数年過ごした後、初めてやった仕事がセールスマンだったが、これはスポーツ部みたいなもので、強制的に働かされる。何と言っても、1人1人、売上げ成績がはっきり出るのだから、売らないわけにはいかなし、「今月売上げゼロ」なんて者は人間としての権利を認められないのだ。実際に、売上げ成績の悪いセールスマンが、罰として、奥さんの前で上司にプロレスのサソリ固めをかけられて窒息死したという話があったし、私のいたところでも、先輩は本当の話だと主張したが、女性セールスマンが男性上司にホテルに連れ込まれて「教育」されることを拒めなかったという。売上げが全てのセールスの世界では、パワハラ、セクハラなんて言葉が通用しないこともあるのだと思う。
私は、そんな仕事に嫌気が差して、事務職に変わった。
事務職が何もしなくていいと言ったら怒られるだろうし、実際、そうでない職場が多いかもしれないが、私は、中学の部活同様、何もしなかった。
私は、敬愛する、あの大俳優、丹波哲郎さんの真似をしたのだ。
丹波さんは、サラリーマンになっても、全く仕事をせず、挙句、出社したらすぐに遊びに出かけ、オフィスにすらいなかった。上司は、「雑誌を読んでてもいいから、席にはいてくれ」と頼んだが、丹波さんは、「どうせ何もできないし、できるようになる気もないのだから、いなくていいじゃないか」という雄大な理由で従わなかった。
丹波さんは、それ以前に、軍隊でも何もしなかった。自分と同じ新米の兵隊達が、上官や先輩の使い走りや洗濯を一生懸命していても、丹波さんは決してそんなことはしなかった。
そして、真面目で優秀な兵隊達は戦地に送られ、ことごとに戦死したが、無能で何もできない丹波さんは、豚の餌やりみたいなことをするところに回され、そんな空襲の恐れもない平和なところでのんびり過ごしたようだ。
外務省に高給で通訳に雇われた時も、本当は英語なんてできなかった丹波さんは逃げ回って仕事をしなかったが、外務省の地下バーで知り合ったアメリカの軍人と仲良くなって、酒を飲んだりバクチをやって楽しんだようだ。
そして、丹波さんは俳優になっても、すぐには仕事がなかったが、おつかいに行かされた映画会社かどこかで、ふんぞりかえり、事務の女の子に、ラーメンの出前を要求し、そのデカい態度に偉い人だと勘違いでもされたか、丹波さんはのうのうとタダでラーメンを食べて帰っていったようだ。
仕事を一生懸命やらずに怠けていると、後でツケが回ってきたり、バチが当るとか言う者も少なくない気がするが、丹波さんは、そんなことは全くなく、それどころか、我が国屈指の名優になっただけでなく、007シリーズのヒット作『007は二度死ぬ』で、ショーン・コネリーに次ぐ役を演じて国際的な俳優にもなった。
無論、私も、バチが当ることはなく、その後もますます良い思いをするばかりだった。
ただ、丹波さんの真似をする胆力が無くなると、やや不遇になることもあった。
丹波さんや私のやり方は不道徳で、良識に悖(もと)り(道理にそむくこと)、仏教の因果律でも、キリスト教の「悪い種は悪い実を結ぶ」の教えでも、必ず悪い結果になるはずだが、そんなことはなかった。
だが、私は、釈迦やイエスの教え自体は信奉しいている。
しかし、彼らの教えは、世間で言うような、狭量で堅苦しいものではないのだ。
表向きは、真面目に一生懸命に、立派な仕事をしている者が、ロクな目に遭っていないことはザラにある。
そんな人達は、心が狭く、一面的な正しさにこだわり、それに従わない者を責めたり、蔑んだりすることが多いのではないだろうか?
一方、丹波さんは、いつも明るく、ものにこだわらずに悠然とし、見栄を張ったり、人に嫌がらせをして困らせるようなことは決してしなかった。
また、誰かに何か嫌なことをされてもすぐに忘れ、根にもったり、恨むようなことがなかったのだ。
丹波さんは、子供の頃から、ものにこだわらない性質を持っいて、それが幸運の原因だったと言われていた。
そんな丹波さんに倣い、なるべくものにこだわらず、できるだけ鷹揚に振舞うことで、私のような小人物でも、やはりツキに恵まれてばかりだったのだ。
小さな道徳などより、そういったことの方がずっと大切であることは間違いがないと断言できる。
尚、後に霊界研究をするようになった丹波さんは、ものにこだわらない人間がなぜ運が良いのかと言うと、そんな人間ほど守護霊が護り易いからだと述べている。
高名な宗教家の五井昌久さんの本を読むと、そうであることが更に分かるのである。
そして、五井さんは、常に、守護霊、守護神に感謝すれば、ますます加護を得られると言ったが、ご利益目当てで、下心のあるわざとらしい感謝をするよりは、丹波さんが言われたように、せめて、朝起きた時と、夜寝る前に、守護霊に挨拶することだ。
最初は、「おはようございます」、「おやすみなさい」で良いと思う。
そして、自然に感謝の念が起こってくれば、「守護霊様、守護神様、おはようございます。今日もよろしくお願いします」、「守護霊様、守護神様、今日も護っていただき、ありがとうございました」と言うようになるだろう。
そして、ますます、広い、こだわりのない心を持つようになれば、幸福になることは間違いがないだろう。
また、五井さんの『世界平和の祈り』を唱えるなら、自然にこだわりのない大きな心になれるのではないかと思う。
丹波哲郎さんの座右の銘が、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』であったことに、私は深い感慨を覚える。
私には、『雨ニモマケズ』の深い意味が分からなかった。
しかし、昨年(2012年)11月23日に、東京オペラシティ・コンサートホールで行われた、冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』の、冨田さんが素晴らしい曲をつけた『雨ニモマケズ』の荘厳な合唱を百回以上聴いて、私は、これは、法華経を深く信奉した宮沢賢治が、仏神の心を表したものであると感じた。
私は、『イーハトーヴ交響曲』で、初音ミクが歌う宮沢賢治の世界に心酔し、今更ながら、すっかり宮沢賢治のファンになり、熱心に作品を読み、ますます『雨ニモマケズ』の素晴らしさが分かるようになったと思う。
宮沢賢治、五井昌久、丹波哲郎、冨田勲、そして、初音ミクが我が国や、我々を救う救世主であると思う。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気ランキング参加中です |
のびのびとしたリラックスした気持ちでいるのが、幸せなのかなって思います。なかなかなれないですが(´・_・`)
そういられるだけで、勝ちみたいな。自分は、自ら負けに行っているようでもどかしくなります。
kayさんの記事を読むと明るい気持ちになれるので、読みに来てしまいます(^_^)