私とて、ゴルフやスポーツジムでのトレーニングは立派な運動だと思っている・・という、この言い方に違和感を覚えるなら、全くの世間的な人間だろう。
そんな世間の者は、「何言ってるんだ?ゴルフや、スポーツジムで運動することがちゃんとしたスポーツだろう?」と言いたいのだろう。
40代とか50代の人と話していて、運動や自分でやるスポーツの話になると、彼らは、「よし、俺のゴルフの話をする時が来たな」といった様子になる。しかし、私はゴルフのことはさっぱり分からないし、興味もない。そもそも、私はゴルフをやったことがない。打ちっぱなし(野球でいうバッティングセンターのようなもの)は面白がってやっていたが2日やったら、それ以上やろうとは思わなかった。
しかし、世間では、大人の男のスポーツとは、まずゴルフであり、自動車のトランクにゴルフバッグを積んでいてこそ、立派な社会人というものらしい。
また、世間一般では、「スポーツをやる」と言いだした場合、スポーツジムの会員になって、器具を使ってトレーニングしたり、水泳をしたりするのが常識と言いたいような雰囲気がある。
しかし、私が最上の運動と考えているのは、腕立伏せとヒンズースクワット(体重だけの負荷で行うスクワット)であり、それに腹筋運動を加えても、畳一枚のスペース以外、何もいらない。お金も一円もかからない。面白いし、毎日、簡単にできることが運動には最も大切なことだと思っている。
しかし、世間の人は、このようなものはスポーツだと思いたくないらしい。こんなことは楽しくないという観念も持っているのだろう。
私が次点の運動と考えるウォーキングならまだ認める人がいるが、害もあると思えるジョッギングの方が人気がある。私は、ウォーキングもやらない。歩く場所がないからだ。いや、家の近所にある大きな池の周りが、ウォーキングに素晴らしい場所なのだが、大勢の人がウォーキングをしているので近付かない。しかし、世間の人は、大勢が集まる場所が好きで、ますますそこに行くのだ。私がなぜ、そんな場所が嫌かというと、別に話しかけてくるわけでもないが、やたらくっついて来られるからだ。私は人がいたら、邪魔にならないよう離れるのだが、大抵の人は必ずくっついて来る。それも、こちらに興味があるというよりは、自分の存在を意識させたいところは、別にウォーキングの時に限らない世間の人間の特徴だ。連中は、会社の中などでは、大声で自慢話をしたり、個人的な主義を押し付け、自己の存在をアピールせずにいられない。また、電車の中ではやたらごそごそ動き、物音を立てて哀れな自己主張をするのだが、ウォーキングなどでは、独り言を言ったり、荒い息をしながら近付いて来る。まあ、最近は、そんなものを気にせず、やり過ごす修行には良い場所かもしれないとは思っているのだけれどね。
ああ、それと、ウォーキングなら、毎日、通勤で駅まで片道2km程度は歩いているし、普段もなるべく自動車を使わずに歩いているので、特別にウォーキングをやる必要もない。だが、世間の人はどこに行くにも(ゴミを出す時ですら!)自動車を使いながら、ウォーキングやジョギングをするのだから滑稽である。

スポーツの話が長くなったが、遊びも同じようなものだ。
健全で恥ずかしくない社会人の遊びは、奥さんや子供を連れて、巨大レジャーランドに行ったり、海外旅行をすることだという偏見に凝り固まった人が多い。私なら、どんな意味でも無駄としか思えないそんなことをやる気は全くない。まあ、仕事や遊びの海外旅行もしたことはあるが、何か有益なことがあるかというと、全く無いとは言わないが、さほどでない。かける時間に比べれば、損失の方が大きいと思う。あのエマーソンすら、旅行に何の意味もないと断言している。確かに、アンデルセンは生涯、旅を続けたが、彼の場合は、そうでなければ、世間に煩わされるからだろう。それに、アンデルセンは、日本で言えば江戸時代末期から明治初期の人で、ヨーロッパでは日本と比較にならないくらい、鉄道や客船、それにホテル等が発達していたとはいえ、旅行が不便な時代には違いないので、堕落せずに精神をしゃんとさせておくには旅は素晴らしいものだったろう。彼は決して金持ちではなかったので、さらにそうだった。しかし、今の旅は、海外も含め極めて安楽で、そのために平和ボケし過ぎた心構えで旅をするので、自分で緊急事態を回避することが全くできずに悲惨なことになるのだ。
私は、遊びといえば、本を読んだり、音楽を聴いたり、初音ミクの映像を見れば、その外は何も必要ない。また、特に、最近は、遊びというのではないのかもしれないが、神の名を自分に言うことが何より楽しいのだが、これは世間の人の理解することではない。しかし、私には最高の遊びでもある。
腕振り運動も、運動と遊びを兼ねた、最も楽しい上にあらゆる良いものをもたらすのだが、世間の興味を惹くことはない。

食事の話をしよう。
私が、肉や魚を全く食べないことを聞いて驚く人には大分慣れた・・・というより、仕方がないと諦めているが、では野菜ということになると、世間の人は、食べる野菜はサラダだという強い固定観念を持っていることが多い。いや、そもそも、青野菜を食べないといけないという、偏見とも言える強い思い込みがあるようだ。
私の食事はナッツだというと、ある人間的にも立派な人が、「ナッツを食事に?おやつとかつまみじゃなく、食事に?本当ですか?」と、いかにも奇異そうに何度も聞き返してくるのにはうんざりした。私は、相手が、焼き魚とご飯とサラダを食べていると言ってもすんなりと受け入れるのにねえ。
私は野菜も特に意識しては食べない。貰えば食べるが(農家の人がよくくれる)、野菜をずっと食べなくても全く平気だ。
私は、アーモンド、くるみ、松の実、シナモン、それに、シンプルな(クリームやチョコレートが付いていない)ビスケットを食べるだけだ。
りんごやオレンジはあれば食べるが、別に必須ではない。その他の果物は、避ける訳ではないが、求めてまでは食べない。
こんな食事では栄養が偏って身体に悪いと思う世間の人がよくいるかもしれないが、毎年の健康診断では完璧に健康な結果しか出ない。
BMIは20未満だが、それほど痩せている訳でもない。むしろ、筋肉質だし、180cmでウエストが70cmもない身体は、世間でいいう腰痛みたいなものにも全く縁がないことに最近気が付いた。私も、世間並に食べていた頃は腰痛に苦しんでいたのだ。

最後に酒の話もしておこう。
ウォッカはともかく、ジンをストレートで飲むと言うと、思わず顔をしかめた世間の常識人がいた。
彼は、ジンは、カクテルの材料だという固定観念が強過ぎ、すっかり偏見になっているのだ。
私は、マティーニ(ジンとベルモットを材料とするカクテル)も好きだが、ジンのストレートも良いと思う。
元々、オランダではジンはもっぱらストレートで飲まれていた。確かに、安価だったので、貧しい庶民が飲んでいたのだが、味は良いので、貴族にも愛飲する者は少なくなかった。ただ、ジンは、貴族が飲むには品格に欠けると思われていたので、貴族達は隠れて飲んでいたという話がある。馬鹿な話である。
私は、ウォッカ、ラム、カナディアンクラブ、ティオ・ペペ(ドライ・シェリーの一種)、コニャック(ブランデーの一種)等も飲む。
ただし、せいぜいが30mlで、世間では、それを飲酒と言わず、世間の人が思い込んでいる「酒を飲む」とは、何杯もお代わりしてガブガブとカバのように飲むことなのだ。しかし私は、そんな無駄で品格のない飲み方をしたくはない。

人間の真の偉大な力である生命力の発揮を妨げる大きな原因が偏見・・・固定観念である。
偏見の多い世間の人が無理矢理に何かを成し遂げようとすると、争いが起こり、悲惨を招かずにはおかない。
低い能力で強引にことをなそうとすると、そうならざるを得ない。
また、固定観念は、身体の能力の健全な発揮も阻害するので、身体の調子が悪く、だるかったり、腰が痛かったり、すぐに風邪をひいたりすることも多い。また、大食・美食が流行っていることもあり、肥満がひどく多いが、これらが重なることで、取り返しの付かないような病気になったりする。
私のような生き方が奇異に思えるなら、それは世間的な固定観念が強いせいだが、この私にしたって、まだまだ、心に蓄積されたガラクタを捨てようと思っているのである。









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