葛洪(かつこう)こと抱朴子(ほうぼくし。283年~343年)が書いたとされる『神仙伝』を読むと、元は普通の人であったのだが、数百歳になっても20歳とか50歳に見えたり、あるいは、少年や少女にしか見えない仙人達が数多く登場する。
彼らのほとんどは、先輩の仙人の教えを受けて仙人になるのであり、自分がいかに仙人になりたいと望んでも、先輩の仙人に見込まされなければ、仙人になる方法を教えてはもらえない。
そして、どんな人間が仙人となるに相応しいかには、はっきりとした共通の性質が見られる。
まずは、非常に忍耐強いことだ。
多くの場合、仙人になりたい者は、仙人の身の回りの世話をすることから始める。それは、黙って、淡々と、誠意を持って懇切丁寧に行うのであるが、仙人の方では、何をしてもらっても、どんな物をもらっても、礼の一言も言わない。それが何年も、ことによっては、何十年も続くのである。それができなければ仙人になる見込みはない。
次に、非常に謙虚であることだ。
仙人に対してはもちろんだが、他人を見下して、自分を重んじるような者は、優秀な人間であっても、すぐに仙人に見放される。

仙人は皆、慈悲深く無欲である。
仙人は薬を作るのが上手い者が多く、とてもよく効く薬を作るのだが、それを自分で1日売り歩き、かなりの金を得ると、それを貧しい者にほとんど与えてしまうのである。
また、自分が物乞いをして得た金を、やはり貧しい者に与えるという仙人もいる。
そして、仙人達は、病気の者など、困っている人を放っておくことができないのである。
一方で、王侯と言えども、仙人を臣下として扱おうとすれば、仙人は去っていく。これは、決して仙人のプライドが高いというのではなく、身分の高い者の傲慢さを嘆く気持ちからだと思う。実際、多くの王侯は、仙人に会うと、王といえども平伏するのである。国を治める王ほど、眼力が必要が必要であり、たとえどんな姿をしていようが、仙人を一目見て、それが自分よりはるかに高い存在であることが分からないようでは、王たる資格が無いに違いない。

さて、仙人になる方法であるが、本当は意外に簡単なのかもしれない。
しかし、愚かな人間は、その簡単なことがなかなかできないので、やはり、仙人の助けを必要とするのだろう。
彭祖(ほうそ)という有名な仙人は、仙道を修得するには、ただ、「精力を浪費せず」「心を静かにし」「適切な食事をする」ことで十分であると言った。
老子もまた、精力を溜めて浪費しないことを何より重んじたというが、そのための根本的なことは心を静かに保つことであると思う。
インドの聖者ラマナ・マハルシも、必要な修行を聞かれた時、「適切な会話」「適切な睡眠」「適切で清らかな食事」とのみ答えた。
これは、『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナが教えたことにも合致する。
ただ、やはり我々は、こんな簡単なことも、高い存在に導かれなければ行うことができないのかもしれない。
江戸時代の高名な観相(顔や身体の相で運命を鑑定する占術)家であった水野南北は、文字は読めなかったが、仙人に観相を教わったことを明かしている。
そして、仙人になるというのではないが、人として幸福に生きるのは、ただ1つ、食を慎みさえすれば良いと言った。
食を慎めば、心が静まり、心が静まれば、精力を浪費することもなくなるのである。
それができれば、あと一押しがあれば、仙人にもなれるのであろうと私は思う。
アメリカの科学技術者で探検家でもあったベアード.T.スポールディングが書いた『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する大師達は、まさに仙人のような存在であるが、彼らは、自分達が特別な存在ではなく、ただ、人間本来のあり様を示しているに過ぎないと強調した。そして、彼らのようになるための特別な修行がある訳でもないとはっきり言った。
仙人とは、ただ、人が成長した先のものであると私も思う。きっと、普通の人の中に、仙人も紛れているに違いない。私はそう思えてならない。









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