中島敦の短編小説『名人伝』で、弓の技を究め、そこからさらに果てしなく進んで、遂に悟りに達したに違いない至高の名人は、最後に、「善と悪の区別がつかない」と言った。
『荘子』には、万物の根源であり、実相である道(タオ)に達するためには、是非好悪の判断をしてはならないと書かれている。
それは良いだろう。私もそうしよう。
どんな犯罪者がいても、私は、糾弾し、死刑にしろとは言わない。
そんなことは私にも出来る。
思慮、分別は捨て、全てなりゆきに任せることが出来るなら、私もそうしたい。
だが、私は、良心だけは何よりも大切にしたいと思っている。

しかし、良心とは、あてにならないものだと考えられることもあるだろう。
それも分かるのである。
道徳を教える者には、生徒に涙を流させるような話が良いものだと思い込んでいる者もいる。また、そんな話を聞きたがる者も多いのだ。
しかし、感傷的なもので道徳を求めると、必ず高慢になり、自己本位な狭い人間になる。つまり、自分の都合で悪いことが出来る人間になる。
だが、良心はそんなことをさせない。
良心とは、感情を乱すものではなく、感情を忘れさせるものなのだ。
ある国では、国家元首を崇拝し、国家元首のためならどんなことも躊躇なく実行することが最高の道徳だと、幼い頃から叩き込まれるだろう。
しかし、それに疑いを感じないのだろうか?
デカルトは、「一切の疑いがなく、完全に明白なもののみを真とし、単に真らしいものは全て虚偽とする」と決めていた。
それで言えば、世間の中、あるいは、物質世界に、真理は一切存在しない。
ただ、デカルトは、全てを疑ううちに、あることに気付く。それは、「疑っている私がいることだけは確かだ」ということだ。そして彼は、「疑っている私は確かに存在する(一般には、『我思う、ゆえに、我あり』)」ということを、疑う余地のない完全に明白な真理とした。
しかし、ルドルフ・シュタイナーは、「思考している時の私は偽者であり、実は存在しない。本当の私は、思考をやめた時に初めて存在する」と述べた。
その通りだ。この私は偽者かもしれない。いや、確実に偽者なのだ。
しかし、それでも、良心は確かに存在している。
私の存在が否定されても、良心は存在しているのだ。
猫がこっちに歩いてくる。
私は存在しない。
しかし、猫を恐がらせないように、脇によけて歩こうとする良心は存在する。
なぜなら、それは私の思考から出てくるものではないからだ。それは、世界の初めからあって、世界が終っても存在し続ける何かだ。
これに関しても反論は出来るだろう。
だが、私は、良心が存在することと引き換えに、自分の存在全てを差し出すのである。
ニサルガダッタ・マハラジは、「あなたが確信できる唯一のことは、『私は在る』ということだけである」と言った。
だが、私は良心以外の存在は否定するのである。私が存在しないことは何の問題でもない。
真理とは実にシンプルなものである。


アスタリスクは道を示す 偶然は身を潜める
アスタリスクはただ答える 命題は解決する

アスタリスクは道を示す 必然は身を潜める
アスタリスクはただ哀れむ 存在は否定される
~初音ミク『可能世界のロンド』(作詞:Aki、作曲:millstones)より~

この曲と映像は、究極の現代芸術(Kay評)『MUSIC OF SCIENCE』でご覧になられることをお奨めする。









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