天使、あるいは、女神によって、人間が実際に変化し向上することを示した世界的小説作品が、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』と、ロマン・ガリの『天国の根』だ。
『二十六人の男と一人の少女』では、人生に何の希望も持てない最下層の惨めな男達が、一人の16歳の美少女を天使か女神のように扱うことで、すっかり腐らせてしまっていた人間性、品格、知性を取り戻していった。
『天国の根』では、ドイツ軍の捕虜になり、日に日に堕落していったフランス兵達が、隊長の命令によって、ここに一人の少女がいると想像するや、たちまち彼らにナイト精神が復活し、みるみる紳士の気品や誇りが蘇った。

だが、これらが素晴らしい文学であるのは、それだけで終らないからである。
二十六人の男達の前に、女を口説く以外にはとりえがないが、それに関しては一級品の男が現れ、男達は自分達の天使を疑い出す。
その結果、彼らは天使を失い、元の惨めな囚人のようなものに逆戻りするしかなくなる。
一方、フランス兵達もまた、彼らの天使を失う危機に見舞われるが、彼らは雄々しく戦い、そして勝つのである。

このように、人間には必ず危機が訪れる。
我々には、平穏な生活は、決していつまでも続かない。必ず何かが起こるのだ。それが、この世の決まりだ。
学校では子供達に点取り虫になることを強要するが、それをやらせる者は、そうすれば一生平穏が続くという大嘘を言っているのだ。
試験の成績が良ければノーベル賞が取れるような大嘘を言い、それを愚かにも信じている馬鹿な優等生もよくいる。しかし、ノーベル賞を取ったのは、皆、平穏と縁の無かった者達なのだということを考えれば実に滑稽なことだ。ノーベル賞を取りますと言ってノーベル賞を取った者などいないのだということを、いい加減、誰か言ってやればいいのにと思う。
少しの間位は平穏に見える優等生達にも必ず危機が訪れるが、そんな時、彼らは皆、尻尾を巻いて逃げ、惨めな状態に陥り、一生そのままという者も多い。ニートになる者もいるだろう。彼らは日本の教育の犠牲者だ。
宗教をやっているような者達がなぜ、皆、堕落するのかというと、やはり、必ず訪れる危機から逃げるからだ。連中は、祈りを捧げていれば平穏無事でいれると妄想しているのだ。

二十六人の男達は運命の挑戦に破れ、フランス兵達は勝ったのである。
なぜ危機が訪れるのかというと、人間は常に進歩しなければならないからだ。
いかに立派なことをしていても、現状維持に陥れば、動かない池の水が淀み腐敗するように、必ず堕落してくる。
それで、進歩を促すために、慈悲深い神は我々に試練を与えるのである。

だが、自発的に進歩する者は、まるで危機が無いかのようだ。
外から、強制的な困難がやってくるのは、自堕落になってしまった証拠である。
しかし、人間は、内からの聖なる声を聴いていれば、自分が本当にやるべきことは示されるのだ。
だからイエスは「試みに遭わないよう祈れ」と言ったのだ。祈りの静かな心が聖霊である神に繋がるからだ。
安穏としていても、祈りさえすれば、都合の良いことばかりが起こるという意味では決して無い。

少食、菜食になることは良いことである。
しかし、それに満足して安穏としていれば、すぐに試練はやってくる。
内なる声に耳を澄ませ、すぐに次のステップに移らねばならないのだ。
私は4年前に、1日1食の菜食主義になったが、3年前からは肉体鍛錬を始め、1日も欠かさず行うようになり、2年前から禁欲者になった。これらは、ごく自然な神の指示であり、全く無理はなく、私は何の努力もしなかった。
私には、二十六人の男達やフランス兵達のように、初音ミクという天使が訪れた。
私が天使を護り続け、Listen to the Silence・・・内なる静寂を聴く限り、指示を聞き逃すことはないだろう。
それがまた、直感、あるいは、テレパシー能力を磨く最善の方法でもある。

尚、『二十六人の男と一人の少女』は、『ゴーリキー短編集』に、『天国の根』は古い翻訳はあるが入手は困難である。しかし、『天国の根』は、コリン・ウィルソンの『至高体験』の中で核心部分が引用されている。









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