眠ってる時に見る夢は、目が覚めている時の世界とは別の世界だと言うことができる。
大正・昭和の作家である江戸川乱歩は、「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」、つまり、目覚めの時の方が夢で、眠っている時の世界の方が本物なのだと常に言っていたらしい。
だが、事実はこうだ。
目覚めている時の世界も、眠っている時の世界も、両方共夢なのだ。
本当の世界は別にある。
そして、眠っている時の夢の世界の方が、目覚めている時の世界よりも本当の世界により近いのだ。

眠っている時の夢の世界は、目覚めている時の世界よりはるかにスケールが大きくダイナミックだ。
目覚めている時の心では、夢の世界の大きさについていけないので、夢はほとんど覚えていないのである。
目覚めている時に意識改革を起こして、大きさな心を得ると、覚えていられる夢が多くなる。
よく、心を雄大にすると、夜見る夢も雄大になると言うが、それは間違いだ。夢は元々雄大なのだが、目覚めている時の心が矮小だと、夢の壮大・荘厳なところを覚えていないというだけのことなのだ。

まして、本物の世界のこととなると、夢のことさえろくに覚えていない、我々の小さな心に感知できる訳がない。
夢というのは、本物の世界を知るための手がかりなのだ。
それは、夢の世界を月に、本物の世界を太陽に喩えることが出来る。
月は夜道を照らしてくれるが、その光は太陽のものだ。
だが、もし、昼を知らなければ、太陽のことが分からない。
そこで、月を見て、太陽の存在に気付こうとする。
しかし、そんなことをせず、昼に太陽を見れば分かることだ。
夜は月に頼るしかない。しかし、太陽が出ているのに、月に頼る必要はない。
そして、さらに、我々は太陽を超えて真理の光に到達しなければならない。

『トータル・リコール』や『マトリックス』といったバーチャル・ワールド(仮想世界)を扱った映画に独特の魅力があるのは、その中に、微かではあるが、本物の世界へのきっかけが見えるからだ。
川原礫さんの小説『アクセル・ワールド』を読むと、バーチャルゲームの世界に、現実以上の現実があることを発見する(感性があればだが)。
夢と同じで、仮想世界は、我々が現実と言っている世界より、むしろ上位なのだ。なぜなら、そこでは、現実世界では隠された、心の深奥が現れてくるからだ。
さらに、この作品では、目覚めの時に心を磨くことで広大な夢に馴染むように、現実世界での心の強さが、仮想ゲームの質を高めることもちゃんと描いている。
しかし、忘れてはならないのは、夢や仮想世界をはるかに超えた本物の世界があることだ。
『アクセル・ワールド』も、それに気付くような読み方をするのが良い。
そういう読み方をするなら、芥川賞どころかノーベル賞を与えるべき作品である。

下位の世界は、上位の世界のための修行の場とでも言えよう。
修行の場はとても重要であるが、そこが唯一最高の世界であると勘違いしてはならないのだ。
『アクセル・ワールド』でも、ゲームの世界はあくまで楽しむためのものであると言う。ただし、快楽のためのものではないのだ。
問題は、本当の楽しさとは何であるかということだ。
この世でだって、美食や性やゲームや映画といった、娯楽や快楽に耽ると、すぐに飽きて、苦痛にすらなる。普通の人は、そんな時、さらに大きな快楽の刺激を求めるという愚かなことをするし、社会もそれを煽る。
だが、食を慎んでいれば、どんな食事も素晴らしくなるし、宿命により与えられた義務を果たしてこそ、休暇が楽しいのだ。
いずれにしろ、この世界は、下位の世界だ。それを唯一で最上位の世界だという大誤解をするから、絶望したりするのだ。
だからといって、この世界を軽んじてないがしろにするのも、同じくらい愚かだ。
この世界で心を磨かないと、上位の世界に通じる道が開かず、ずっと下位の世界にいるしかなくなる。
この世での楽しみなど求めないことだ。もっとも、そう思っていると、案外に楽しいのも確かである。

ところで、初音ミクの歌も、とくに、コンサートで使われるほどの歌になると、こういったことを全部言っているのである。
それは、ミク自体が仮想の存在であり、報酬を求めずに歌を創る作者達の心に上位世界が働きかけるきっかけが多くなるからだろう。
ミクは福音を語っているのである。

それと、黒澤明監督の『夢』は必ず見るべきものだ。こんな素晴らしい作品のDVDがわずか千円ちょっとで買えるとは驚きである。









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